燃え落ちる柱を見た。崩れ落ちる瓦を見た。夜天に明滅する火の粉が蛍めいて、赤くゆらめく炎の塔は巨きな波のようだった。

 あらゆるものがたやすく光焔のなかへ呑み込まれ、紙屑みたいにかんたんにかたちを変えてゆく。ぱちぱちと爆ぜる音が囁きの泡にきこえる。炎は歌を口遊んでいる。少女の声で。あの愛らしいソプラノで。小鳥のような囀りでーー逃がれるな、許すまいと。

 罰なら。

 これが罰なら、よかった。

 何もかもを喪うならそれでよかった。

 私を焼くならそれでよかった。

 けれど炎によって与えられたのは途方もない自由だと知っていた。私を惑わせるだけの、自由。

 やがて薪は消え、名残惜しそうに赤い舌が地面を這った。炎はすべてを焼き尽くし、思い出もろとも端から舐め尽くして、遂には灰の海に変えてしまった。

 海。

 そう、

 海だ。

 風にあおられた灰燼の腕が、火の粉の名残りが、私の頬を撫でていった。

 

 

尾長の雛 後編

 

 

 雛児のための屋敷は暗く閉ざされている。入口は一ヶ所しかなく、ふるい木戸をひくとすぐにもうひとつ同じような引き戸が設えられていて、それを開けるまえにはかならず外の木戸を閉めて日光を遮らなければならない。ならない、というのは、なんということはない、それがしきたりだからだ。もともとどういう意味があるのかを今となっては誰も知らないたぐいの。 〈尾〉は嫌光性で、光を浴びると艶をわるくするということを父はいっていたが、それだって確かめようがない。櫛師の家によって伝承は異なるだろう。

 隔離されつづけた異形の処女、という事実そのものが、雛児の嗜好品としての価値の本質だーー今となっては。雛児にもとめられるのは無知であること、純粋であることだ。たぶん、女の髪のような尾の艶めかしさとの対比として。ひとは不可逆のものが好きなのだ。自分では取り戻せないものが好きなのだ。あるいはそう信じられるしくみ、たとえばしきたり、それじたいに欲情するのだ。

 そのうつくしい獣を創り出すためだけのものだった。私の櫛は。私の血脈は。

「いまは昼なの、それとも夜?」

 木戸を引くなり、たいくつを持て余した生娘の声が降ってきた。

 少女は室の中央に拵えられたほそい螺旋階段のうえ、丸い繻子張りの小椅子から白い足をぶらつかせる。長い尾が腰から垂れ、畳についてなお円をえがいている。雨に濡れたような玉虫色の黒尾は、塗り込む〈香茶〉によって香りもまた変わる。その調合さえ櫛師の仕事だった。

 投げ出されたほそい足の、その片方の首に揃いの組紐をみとめ、私は思わず俯いた。彼女はそれに気づきやしなかっただろうか。そうひそやかに思うと同時に、ばかなことを、と自嘲もする。食事を載せた盆を置く動作とあわせていたし、そもそも彼女が私をそのように観察しているなどと考えること自体、思い上がりだった。

 なにより、気づいたところでこの子が私を咎めるはずなんて、そう、ひとつもないのだ。

 あの日、跪きすがった私をみつめるふたつの目は、誰をもうらんではいなかった。罪ということ、赦しということ、その意味だってしらないような包容のなかには、しずかな祈りだけがのこされていた。

 だから、罪がもしあるのだとしたら、それは私の中だけのものだろう。

「シラウミ?」

 彼女の、グラスにそそがれた白湯に口をつけるのを飾られた絵のように眺めていた私の目は、はっとして焦点をむすんだ。

「ね、生きてる?」

「……ああ」

「シラウミ、なにかへんだ。つかれてるよ、たぶん。きょうはゆっくり……」

「いや」彼女がいい終えるかどうかのところで、つづきをさえぎった。「私のしごとは、毎日きみをきれいにすることだ。かたときも汚さないこと、不自由させないこと。唯一のしごとなんだ」

「そして私のしごとは、毎日きれいでいること」

 少女はくすくすとわらうと、丸椅子から腰を浮かし、かるい体を宙に投げた。着崩れた着物の、一瞬ひらりとおどる帯や袖が金魚の鰭めいて映った。尾は波うち、黒のなかに虹を艶めかせた。とん、というかろやかな音だけをたてて爪先から降り立つ裸足のままの姿が、一枚の絵のように焼きついた。

「……なんのための階段だとおもってる」

「だって、これ小さいよ。だれかが設計を誤ったんだ」

 螺旋階段の手すりをひと撫でし、"雛"だっていつまでも子どもじゃない、と彼女は眉をしかめる。それでも、見上げていたときとくらべて彼女は小さくか細くみえた。きっと私の顎下にすっぽり収まってしまうだろう。少女は慣れない手つきで着物をととのえながら、「きょうの香りはなに?」という。

「白檀、そのほかにいろいろ」

 私は懐のちいさな硝子壜のことを思い出す。すべての材料は乾燥させ、こまかくくだいて、粉にちかいかたちにしてある。それを調合してあつい湯で煮つめ、櫛で塗り込むことによって、尾に微かな香りのちがいをだすのだ。その手順が茶に似ていることから、櫛師はそれを〈香茶〉と呼んでいる。

「そのいろいろのところが、腕の見せどころってわけ」

「そういうことだな」

「ふうん」

 じぶんで聞いたくせに、少女はたいくつそうに伸びをする。乱れた帯のはしをつまんで、巻きつけたり、ひろげてみせたり、その仕草はいそがしかった。

「やっぱり、迎えたひとによって好みはちがうのかな」

「そうだろうな。同じ香りばかりを好む方もいれば、毎日異なる香りにすることをたのしむ方もいると聞いた」なぜ彼女はいまになってそんなことをきくのだろう。答えながら、私は漠然とした不安におそわれた。いや、ひょっとしたら、たぶん、私は祈っていた。そこへ近づいてはいけない、と口に出すかわりに、私は続けた。「だが、雛児が気にすることではないさ。それは櫛師の……私のしごとだから」。

「ふうん」

 自分の声がやけに猫撫で声のようにひびいたが、少女はくるりと背を向けてそれだけを返した。興味が逸れたことに息を吐いて、けれど、ふたたび彼女は私をふりかえった。その動作が、遅回しのフィルムのように、やけにゆったりとうつった。

「ねえ、シラウミ」

 そのとき、なにか予感がした。かすかなにおいがした。蓋をしても劃せなくなった秘密の、あまい腐臭が。ここには窓なんかないのに、たしかに私の前をふっと、なまぬるい風が横切ったのを感じたのだ。

少女の唇のうごきと、声とが、ずれていた。

 

「私、雛児として迎えられるなら、いちばんきれいなときがいいな」。

 

 像と音とをうまくむすべない。

 ざあっ、と、波の音がおそってきた。

 磯の匂い。のこされた組紐。悪罵する男、泣き乱れた女、ごうごうと音を立てる屋敷、炎、ぱちぱちと爆ぜる音が囁きの泡にきこえる。炎は歌を口遊んでいる。少女の声で。あの愛らしいソプラノで。小鳥のような囀りでーー逃がれるな、許すまいと。だがそれだけは私の心象にすぎない。

 いろいろなものが、聳えたつ静けさのなかに打ち寄せてくるのがわかった。

 

「ーー」

 

 やっと声になったのは、少女の名前ひとつだった。

 彼女が用意できたのはおどろきと沈黙だけだ。むりもなかった。雛児の名前を呼ぶことはもっとも重い禁忌にあたるということを、彼女だってよく知っていた。それは雛児をむかえることになる、所有者だけのものだから。

 私が口にした、忘れかけ、朽ち果てたじぶんの名前を、彼女はゆっくりとなぞった。

「ーー、そういったの?シラウミ、」

「きみは、もう雛児ではないんだ。ずっとまえから」

 どうしてだろう、

 どうしてひとつの嘘さえ守り通すことができないんだろう、

 どうしてはじめからすべて告げてしまわなかったんだろう。ああ、どうしてなんて、ばからしい、それだってわかりきっていることだった。それが誰のためかなんてことは。

「母屋は焼け落ちて、もうだれもいない。家に疵があるからといって、きみを迎える約束をしていたところはべつの雛児を娶ることにしたと、私に告げてきたよ。

もう、ずっと、前だ。

きみが八つになるころだ。きみの妹が消えた、翌日のことだ」

 彼女の瞳にこんどこそ祈りではないものが映っているような気がして、顔を上げることができなかった。すべてを受け容れる子どものままの瞳が、かなしみや憤りで濁るのをみるのは耐えられなかった。ほんとうは耳さえ塞いでしまいたかった。この子のおびえた声をききたくないのに、それでも、何年もかかって封をしてきたじぶんの口からこぼれようとすることばたちを、私はとうとう制御できなくなっていた。

「きみを傷つけまいとして秘密にした、そういう言い訳を、私は私に、してきたんだ。だけどそうじゃなかった。

ずっと私は、ずるいままなんだ。

きみは覚えていないかもしれない。自分から言い出したと思っているかもしれない。

おさなかったあの日、きみと妹とを入れ替えようと唆したのはほかでもない私だった。

どこかでおそれていたんだ。櫛師である私はここを離れることはできない、けっして。だけどきみはちがう。雛児の家は名家だ。雛児以外の娘は嫁ぎ先がすぐに見つかる。

ばかな少年はある日、きみが去ってゆくのを夢で見て、それがとてもこわかったんだ。永遠に三人でいることはできないということ、それがおそろしかったんだ。

だから、入れ替えようといった。きみの妹はきみが思う以上にきみを慕っていることを、私は知っていて、利用したんだ。彼女なら姉の傍を離れることを望まないし、体は弱いし、嫁ぐこともきっとないんだろうなんて、そう思って、それだけのために、そしてきみを異形にかえた」

 十五という年は、からだは幼さを残していても、先を考えられないほどにはもう子どもではなかったはずだった。その証拠に、いまでもじゅうぶんに私はずるいのだ。香りさえ感じられる距離にいながら、この子の顔を見ることさえできず、じっと足元だけを睨めつけている私は。

「あの子が消えたとき、罰なんだろうと思った。たいせつな姉を私欲のために利用した私にたいする呪いなのだと思った。あの子がそういう子でないことを知っていながら、私はあの子までをもまた利用して、じぶんを責める機構をじぶんの中につくったんだ。私はきみを見ながらあの子をかさね、きみはあの子のことを想う。その呪いがあれば私たちはずっと一緒にいられる気がしたから、誰も置き去りにされず誰も置き去りにしないで生きていけると、思ったから」

 告解しながら、ことばはすべてをこわしていた。たいせつにしてきたはずのもの、愛していたはずのもの、やさしかったちいさな思い出たちを、たたきこわし、きたなく塗り潰してまわっていた。ひとまわり背丈のちいさな少年が、ほかでもない私自身が、背中にすがりついている気がした。やめてくれ、おねがいだから、と泣きじゃくりながら。そんなもの、最初からなかったと知っているくせに。おまえの生んだ過ちこそが私につきまとい、忘れさせてはくれないくせに。

「火を付けたのは、母でしょう」

 おもわず、私は顔を上げた。予想もしないことばだった。そのうえ、なんということだろう、少女の顔にうかんでいたのはなお、ほほ笑みだった。まっすぐにむけられた瞳は鏡めいて、動揺する私の顔をくっきりとうつしとった。

「そうだ、けれど」

 お話をしてもいい、と少女が言った。着物をつまみ、舞台のうえで挨拶をするようにして、彼女は語りはじめた。

「母は、村の外から来たひとだったの。父のことは愛してたんだと思う、とても。でもふるいしきたりをすごくきらってた。私たちをそういうものからまもろうとしてくれてた。そのたびに父をはじめみんながおこって、だんだん笑わなくなっちゃった。疲れちゃってたんだ。妹のふりして、雛児の手術を受けるって言ったとき、雛児になんてならなくていい、お嫁にだって行かなくていい、母さまと暮らしましょう、って泣いてた。私はどこか遠い心でそれを聞いていて、ああ雛児になろう、って思ったの。どうしてかわかる」

 あのね、ひどいんだ、と少女はわらう。

「さっき、シラウミから屋敷がもうないんだって聞いたとき、もちろん悲しかったよ。でも、ちょっと嬉しかったな。母はいつもからだの弱い妹のそばにいたから、雛児になるのが私だって知ってたら、あんなに止めはしなかったんじゃないかってずっとどこかで思ってた。だから意地をはったんだ。でも、私が死んで、それで火をつけてしまうくらい絶望してくれたんだっていまになって知って、どこかでほっとしちゃったよ。

毎日きれいでいること。純粋なこどもでいること。私は、雛児の資格なんて生まれたときからなかったんだと思う。だからあの子がえらばれたんだって、わかるよ。わかっていて、それがくやしかったんだ、ずっと」

 でも、シラウミもそうなように、妹のことは、それでいて大好きだったんだよ。

 少女のことばはやわらかな掌となり、私の胸ふかく埋設された箱の中身をとうとう暴きつくしてしまった。それだけは蓋をしようとしていたもの、気づかずにいたかったものまでを、私のまえに列べつくしてしまった。それはつまり、もうおしまいだということだった。なにもかもが、まもろうとしてきたものすべてが、いま終わろうとする息づかいだった。

「嘘じゃ、ないんだ」

 瞳が、燃えるようにあつい。なのに、溢れだしたのは炎ではなく、別のものだった。

「すべてが嘘だったわけじゃないんだ。そのはずだったんだ。

私は、あの子を待っている、そう誓った。まだ八つだ。まだ子どもだったんだ。こわかっただろう、さびしかっただろう、だから、この組紐をかえしてやると誓った。いつまでもここに居続けるつもりだった。嘘をつき通すこと、それだけはほんとうの誓いで、願いで、真実だったんだ。三人であり続けようと祈ったこと、その想いは、真実だったんだ。三年前、きみの前で膝を折ったあのとき、ほんとうに私は、たしかにきみの中にあの子の姿をみていたはずなんだ。

なのに、どうしてだろう」

 気がつけば、私の手は少女の頬にふれていた。尾ではなく、肌だった。着物の袖がさがり、腕の組紐が露わになるのを知ってもなお、とめられなかった。

 頬をはしっとりとつめたく、また、暖かかった。

 そこにいるのは異形などではない。ただの少女だった。

「もう、思い出せない。思い出せないんだ。

きみに似ていたはずだ。きみにあの子は、瓜二つだったはずだ。だからわかるはずなのに。思い出すべきはずなのに。きみにぴったりと重なるはずなのに。

私には、おれにはもう、きみがあの子には見えなくなってしまった」

 婚礼を受け入れられる齢になった少女の手足はのびやかに変容し、写し絵だった双子の、けれどおとなになりかけたこの姿は彼女だけのものだ。着物からのぞく脚の白くながいのや、曲線をえがきはじめた輪郭や、紅をさしたような赤い唇は、それらはもはやあの子の鏡ではなく、彼女ひとりのものだった。

「置き去りにしたくないんだ。置き去りにしたくないと願ったことだけがおれの真実だったんだ」

声はふるえ、にじんでゆく。なにかを告げるたびまた嘘になりそうでこわいのに、ことばたちは生きていて、とどまってはくれなかった。


「おれは、おれがおそろしい。異形なのはおれだ。きみじゃない。おれのほうだ」



 どれくらい経っただろう。

 私の奥底で鳴っていた波の音、炎の弾ける音、おさない歌声は、ぴったりと止んで、そして凪いでいた。そこにもはや何も残されてはおらず、秘密の箱は空っぽだった。さみしい場所。くらく、静かで、それからーーそれから、こんなにも、自由だ。

 すべりおちようとした掌を、咎めるように少女はふれて、それは組紐ごと抱きしめるようだった。

 それからひとつ息を吐くように、ちいさくつぶやいた。

「ねえ、シラウミ、海を見てみたい」

 

 

 

*

 

 

 

 何年ぶりかにみた景色は、それでも何ひとつかわらなかった。

 水面は月をゆらめかせ、くすぐってはあそんでいる。つんとした潮の香り、さりさりとした砂の感触、足元を撫でてゆく水のつめたさが、稠密な五官のはたらきを呼びさました。夜がどれだけ覆い隠そうとしていても、からだはそこにある海を視ていた。

「ああ、すごい」少女はおもいきりふかく息を吸い込んで、おおきく吐きながら言った。「はじめてみた」

 私はその背中に何を言うべきか巡らせてみたが、結局何もうかばなかった。共感だろうが、謝罪だろうが、波に搔き消える気がしたから。そのまえではどんなことばも無力で、そして赦されてしまうだろうから。

 しばらくそうしていた。

 そうする以外には見つからなかったのだ。ただしいことばが、ただしいふるまいがなにもかもわからなくなって、私たちはひろい海に見つめられながら路頭に迷っていた。去ればいいのか、留まればいいのか、だれも教えてはくれなかった。

どのくらいの時間そうしていたのだろう。

沈黙を破ったのは少女のほうだった。

「シラウミ、」ふり返ろうとして、けれど、ふいに彼女がよろけた。

 ーー気がつけば私たちはあっというまに縺れ込み、砂のなかに重なりあって倒れ込んでいた。

 顔をあげようとした瞬間、ざぱん、と音を立てて打ち寄せた波が容赦なく私たちを呑み込み、静かに引いていった。

「……っ」

 私に覆いかぶさったまま、かぶりを振って水をはらう彼女の顔は砂だらけだ。肩ほどもない短く切られた髪からぽたぽたと滴ったものが私の唇に触れ、それは塩辛い。

「海って面白い、静かだと思ったらときどき怒るんだ」

 あの子みたい、と少女はそう言って笑い、ほとんど同時になにかを思い出したかのように、あっ、と叫んだ。彼女のてのひらはさっとじぶんの足首をたしかめ、思わず私も視線をうつした。

 そこにはあるはずのものがなかった。

 顔を見合わせ、まさか、と呟いた。考えていることはおなじだった。

 少女は私の袖をたくしあげ、手首をつかんだ。

 揃いの組紐が、もうどこにも見当たらなかった。

「……まさか、さっき転んだ拍子に切れて、それで波が……ふたつとも?」

 かすれた声で私はようやくそれだけ言った。まるで信じられないことだった。たしかにそれらはもうずいぶん古くなっていたから、まったくあり得ないことではないのだろう。けれど、ふたつともだなんて、そんなことがーーそんな都合のいいことがあるのか、と思った。思って、口に出していた。

「都合がいい、って?」

「だって、許しみたいだ」

「ゆるし?」

 瞳の中に、するどく尖った光がはしったのを、私は見た。

 ざ、と彼女の質量が胸のうえから遠のき、そして私に跨り両手をついたまま、少女は告げた。

「シラウミって存外莫迦だね」。

 それから上半身を持ち上げて、彼女はふいと水面に目をやった。そこにだれかがいるみたいに、まるでその子に話しかけるように、続けた。

「ね、そうだよね。ほら、怒ってるんだよ。あんまり遅いから。私たちが来るのが遅かったから。

ずっと、さびしかったんだ。ずっと待ってたんだ。置いてけぼりだったんだ。だから怒ってるんだよ。いい加減にして、そんなものわたしじゃないって、言いに来たんだ。わたしも連れてけ、って言いに来たんだ。

ゆるしなんかじゃない」

 ……なんてね、と少女は言い、ぽつりと落とすように笑った。

「でも、そっちのほうがいい。偶然なんかよりずっと」。





ながい、ながいあいだ、

ぼくはうずくまっていた。

じぶんの膝のかたさだけがこの世の頼りみたいに額をおしつけて、顔をあげたならとけてきえ落ちてしまうのだと信じているみたいにうつむいて、ただ腿の隙間にできた暗闇だけを睨めつけていた。

ふたりの少女があらわれて笑った。

ねえ、光は、こんなに降っているよ。

ねえ、夜は、こんなにうつくしいよ。

ねえ、いつかまた大切なものをうしなっても、それをわすれないでいる必要なんてないんだよ、だって時間はあたりまえに流れてゆくんだから、さからっておよぎつづけるのはとってもくるしいことなのだから、たどりつけることなんかないし、そこにはもうだれもいないのだから。

だから、もう行かなきゃ。

籠が、とぼくは鼻を啜った。

ぼくがつくった籠があるんだ、みえるでしょう、こんなにつよいんだ。

だけど、ふたりは顔を見合わせて笑ったんだ。

ねえ、そんなところに、ほんとうは籠なんてないよ、って。

ぼくたちは手をつないでどこまでもどこまでも遠くへゆく。

振り返ると、空っぽになったなにかが、からんと朽ち果てた音がした。