シラウミがわたしにふれることはない。

 その小指はわたしに紅をさし、その手はわたしの髪を梳き、その掌はわたしの尾を撫でるけれど(それはかれの仕事だ、かれの人生で唯一の)、そう、それは呪いみたいなものでじっさいそうであって意味のある営みは果ててしまった。それはずっととおいとおいむかしのことだ。

 ねえシラウミ、こんなこと、いつまでつづけよう? 

 

 

尾長の雛(前) 

 

 

 澄藤すどうの家にはしきたりがある。 

 ただしくは澄藤にかぎられたことではなくて、そのようにえらばれた家には、だけれど。 

 雛児ひなごとよばれるこどもは八つになると〈尾〉の種を植えられる。尾骶骨をきりひらき、肉を褥としてそだつ糸状の植物だ。〈尾〉はちょうど鶏のもののようにたっぷりと青をふくんでひかる黒色をしている。ほうっておくといつまでものびつづけ、やがてそれが地に着いて引き摺ることができるくらいになるとようやく雛児は売りものとして価値があるものになる。ーーそう、売りもの。雛児とは生きた嗜好品につけられたなまえのことだ。 

 朱の糸でかざられた尾をずるずる引きながら、退屈にころされかけていた。雛児は邸のそとにでることはできない。本を読むことも禁じられているし、それいぜんに文字だってぜんぜん読めない。うたを歌うことならかまわないというので、でたらめな旋律をつくってはやめつくってはやめ、それだっていつまでもつづけているわけにいかなかった。 

 わたしの退屈をいちばんに潰してくれるものといえば、それがシラウミだ。そろそろ来るはずだ、と思った矢先、襖はするするとひらいてそこに男のすがたがあった。 

 完ぺきな協和! 

 秘かに奇跡みたいにそれをよろこんで、だけどいつだって口に出すことができないでいる。シラウミは表情ひとつ変えない。 

 彼は櫛師くししだ。雛児とともに育てられ、種を植える手術と〈尾〉を常にうつくしく保つ手法を学び、その後一生をかけて雛児の世話をする。それがかれに与えられた役目だった。 

 わたしは部屋の中央へしつらえられた螺旋の梯子をのぼり、止まり木みたいに背の高い、簡素な繻子張りの丸椅子に腰掛ける。こうすると尾がよく揃って手入れにちょうどよいのだ。 

 彼は着物の裾をはらいするりと足下へ敷き、傍へかがむと、漆螺鈿の道具箱から櫛をえらびとる。いちいち動作が滑らかだ、と感心するけれど、それはわたしのほうがそこになにか意味を見出そうとしているだけだからかもしれない。じっさい意味のあることなんかないのだ。なにひとつ。なにも。 

「音痴な歌をうたうなと言ったはずだが」 

 シラウミがわたしの尾にふれてようやく言ったことばがそれだ。ふしぎなことに、尾には感覚がある。すこし擽ったい。このからだとまったくべつのものだったはずなのに。 

「そんなにひどい?」 

「いや……」 

 彼は自分で言っておいてそうではないという顔をする。「ひどくはない」。 

 シラウミの袖からのぞく手首に、ちらりと組紐の飾りが見える。 

 きちんと着物を着こなした大の男にはとうてい不釣り合いな、桃と朱の糸でなわれた組紐はこどもっぽくて、目だってふぞろいで造りはつたない。もうひとつ、おなじものがあるのを知っている。それはいま裸足で投げだすこの足首に、ほつれてからまっている。 

 わたしの、片割れ。 

 わたしとシラウミとのあいだに交わされたどんな淡い約束もささやきも存在しない。単純に、ただ単純に、シラウミのものは元来わたしの片割れの持ち物であった、というだけのことだ。波にのまれて消えてしまったあの子の、それはひとつだけのこされたしるし。わたしと揃いの組紐を彼はかたみとして譲り受け、ほとんどかくすようにそれでいてみえるように身につけている。彼はなにも言わないしお互いそれをことばにしないで諒解している。時をとめるためのまじないをふたりして信じているみたいだ。手にしたとき彼はいっていたっけ、いつかかえしてやりたいと。それがいつなのか、永遠にこないのか、誰にもわからないのに。呪いみたいだ、いつか、なんて。 

 シラウミがわたしの尾を撫ぜる。きれいに伸ばした女の子の髪みたいだなと自分でおもう。雛児の髪は〈尾〉を際立たせるためにばっさりと切ってしまうし色だって灰に染め変えられるから、わたしとあの子はそこだけはぜんぜん似ていなかった。あの子の髪こそうつくしい〈尾〉みたいに艶があってなめらかで、シラウミだっていまきっと思い出しているにちがいなかった。だってあんまり険しい顔をしている。ねえシラウミ、おまえはいつになったらじぶんをゆるすの。 

 シラウミがほんとうはわたしとあの子とを重ねたがっているのを知っている。だってそうだ、顔も声もすがただってほとんど変わらないのに。だけど、シラウミはばかだ、ばかみたいにまじめだから、重ねたがっていてだからこそけしてわたしにふれようとしなかった。目隠しで人形をさわるみたいに慎重に、それは調律師の仕事であってそこにどんな感情もこもってはいけないと言い聞かせるみたいに。音痴だなんていったのだってあの子は歌が好きだったから、わたしとあの子を重ねてしまいそうで遮って、それならそうであの無愛想を最後まで通せばよいのに彼はわたしさえ気づかって結局あんなふうになってしまう。「ひどくはない」、だなんて、ばかだ。ばかだ、もう、いいのに。もういいんだ、シラウミ。わたしのなかにあの子をのぞんだって責めたりしない、だれもシラウミを責めたりしないよ、なのにどうしてまだそうやって、誓いをたてるの。 

 わたしはきゅうに泣きたくなった。あの子のためでもわたしのためでもなく途方もなく不器用なこのひとのために。大声で泣き喚きたくて、だけど涙も出なかった。ただ呆然と彼の、愛おしむことさえ自分にゆるさないままわたしの尾を整える指先を見ていた。 

「……ねえ、シラウミ」 

「なんだ」 

「おまえのなまえ、どんな字をかくの」

 声を出さずにはいられなくてとりあえず探してみた話がそれだった。だけど彼の、尾を梳く櫛が一瞬止まって、そのからだが強ばった。 

「シラウミ?」 

「禁じられている。雛児に字を教えることはーー 

いや、ちがう。どうして」 

 そんなことを聞く、と彼が顔を上げる、目を合わせてはじめて、なんてことだろう、シラウミがいまどんな顔をしているかを知った。 

 もうずっと泣きそうなのは彼のほうだった。 

「行くな」 

 ああ、 

「行くな、おまえは」。 

 そうだったんだ。 

 きみの名前を知ったからだね、 

 あの子が海へ向かったのは。 

 あの日、雛児になるのはほんとうはあの子のほうだった。妹は気も弱くからだも強くはなかったから、シラウミとわたしとが共謀してほとんどむりやりにあの子とわたしとを入れ替わらせたのだ。そのときあの子も聞いたのだろう、彼の名前を、それはどんな字なのかと。もう雛児になる必要のないあの子に彼ははじめて字を、ウミ、という字、それがどんなものかを教えたんだろう。シラウミがわたしへ植種するあいだ、はじめて知った文字、彼の名、それと同じ響きをもつものをその足で見に行って、そしてにどともどらなかった。みつからなかった。 

 白海、 

 そんなふうに書くんだろうか、このひとの名前は。 

「シラウミ」 

 もういいよ、気がつけばそう呟いていた、と思う。たぶん彼にはきこえなかった。 

 だれか、誰でもいい、なんだっていい、もうこのひとを救ってやってよ。わたしが生きていたっていなくなったってこのひとが生きづらいのなら、わたしをどうかあの子にしてよ。ひどく扱われたっていい、シラウミはだけどそれだって悲しむんだろう、悲しむんだ、だからいやなんだ、だからきらいなんだ、シラウミは、ばかみたいに、やさしい。 

「行かない、どこへも」 

 彼がわたしの、長く垂れた〈尾〉に額を寄せて泣く。祈るみたいに。縋るみたいに。 

 高い椅子から飛び降りる。裸足が静かな音をたてる。行くな、おまえは。おまえは、そう言った。それが嬉しかった。悲しかった。彼があの日以来はじめてわたしをあの子に重ね、わたしをわたしとして見た、その目の、なんて烈しいことだろう。 

「わたしは鳥だ。籠の鳥だ。ねえシラウミ、籠の鳥は、どこへもいかない」 

 ごめん、と彼は誰にも言えなかった謝罪を繰り返す。誰も彼を責めたりなんかしないのに。あの子だって、わたしだって、彼を責めたりはしないのに、シラウミだけが彼をとうとうゆるせないでいる。 

 彼の頬を掌で包み、光の一条を舌で舐めとる。辛く甘くきれいでかなしいもの、どんな宝石だっていまこの瞬間無価値だ。シラウミの、ひとまわり大きな掌がやがてわたしの掌にそっとふれる。瞳があい、潤んで輝くその中にわたしが住んでいる。 

 ひとの体温はこんなにもあたたかでわたしはようやくわたしの願いを思い出す。

 もうずっと、わたしはこのひとにふれてほしかったのだと。