三、


「――そう僕はね、怪物になったんだ。人間になれなかった獣みたいな、そういう無垢さや罪のない暴虐さをきみは僕に求めていただろ、だからね、これはたぶんご褒美なんだ」

 声が聞こえる。

 彼は寝台に横たわったまま、自分のからだが着実に壊れてゆくのをただ感覚している。

 あれからどのくらい経つのか、それを知る手段を彼は持たなかった。微睡みのような意識のなかで、幾度か少女が「食事」を行うのを、他人事のように見ていた気がする。視界に写り込む壁掛け時計の短針は五を指しているが、もはやそれはただの無意味な数字に過ぎない。時間とは相対的なものなのだ。少なくとも時計の示す時間というものは。

 けれども、世界とは最初からそういうものだった。時間も地名も名前も、社会を支えているのは人々に共有された「認識」という紐で綯()われた不安定な、そして強固な錯覚だ。

 そこから零れ落ちたその危うさ、獣のような無垢こそ、少女に求めていたものではなかったかと、彼はわずかに残った意識のうえで思った。

「君が僕にしていたことは、僕を人の理(ことわり)から切り離すことだった。そうでしょう?だけど今度は僕の番なんだよ。いいかい、君は怪物になるんだ。僕の神様が君だったように、僕が君のたったひとりの神様になってあげる。おまえを、怪物にしてあげる。世界から切り離されて、見放されて、居場所のない怪物に」

 少女は渾々と、ただ喋りつづけている。懸命に語りかけているのに、返答などはじめから必要としていないというふうでもあった。

 いつか、これと同じような姿を見たことがある、と彼は思った。

 おぼろげな記憶の蓋がひらく――繭、

 そう、繭だ。

 あれは本家にいたころだったろう。少女に、繭のついた枝を拾ってきてやったことがある。それ以来少女は、お前は羽のついたきれいな生き物になるんだと、彼に聞かされた通りの言葉を何度も何度も繰り返し語りかけていたのだ。

 けれども、そこに少女自身の願いや希望が込められていたわけではない。

 単純に、ごく単純に、それを事実だと疑うことなく信じきっていただけだ。

 そういえばあの繭は結局、なんという虫になったのだったろう、と彼は思った。

「僕はね、狡いって思ってたんだよ。だってときどきいなくなるし、それが最後かも知れないし、駆け引きをしているようでいつだって手綱は君が握っていたんだ。君だけが自由だった。自分だけ高いところに立って、それで僕をこんなふうにした」

 そんなのは不公平だ、と少女がつぶやいた。けれども、そこには言葉ほどの生きた憤懣は篭っていなかった。少女の中に、たしかにそういう賊心はあったのだろう。だがどこか白々しかった。

 少女にだってわかっているのだ。それを選んだのは自分でもあるのだと。わかっていて、本当のところはそれをいちばん理不尽に思っているのだろう。

 だから少女の言葉はすべて自分を納得させるための言い訳で、これは空疎な演説なのだ。本当は聞き手など必要としていない。

 だが、その主張には正当性がある、と彼は思った。

 少女自身ではなく、たとえばそう、少女の母親の立場に立ったときには。

 旬欄自身の母親は、彼が八つのときに他界した。姉のように慕って懇意にしていた女中の死を嘆き、残された彼を不憫に思ってか、屋敷に住めるよう取り計らってくれたのが少女の母親だった。わたしの子どもと遊んでやって頂戴ね、と彼女は笑い、実際旬欄は歳の近い世話役が必要だからということでそこに住(すま)うことを許されたらしかった。

 だが、結局その子どもと顔を合わせることになったのはそれから六年が過ぎ、彼が十四になったころだった。

 少女の母親も出産後ほどなくしてこの世を去り、まだ首もすわらない娘には乳母があてがわれた。

 そのことによって自分が女中たちにどのように囁かれているのか、彼は気づいていた。だが別段怒りも哀しみも抱くことはなかったし、むしろ得心してさえいた。

 彼女たちも自らの家庭を支えるために働いているのだ。とうに死んだ一介の女中の息子風情が、対価も求められず悠々とこの屋敷に暮らしているのはさぞ不愉快だろう、と。

 彼の心は実のところ母親が死んだときにも、奔放でどこにいるのかわからない父親について思いを馳せるときにも揺れ動くことはなかった。だから彼女たちの烈しく昏い嫉みや怒りを興味深く感じていたし、同じ年頃の少年たちが発露するどのような感情でも好ましく思っていた。

 鞣された心のうちで、自分はもしかしたらそれを持たないかわり他人の機微を糧に生きる怪物なのではないかと夢想することもあった。人々の、帰依すべき倫理という強固な網から見放された獣ではないのかと。

 けれども、昏く閉ざされた屋敷の世界からさえ切り離され、狭い離れでひとり、声を掛けたというのにこちらに目を向けることもなく窓の外を見詰めつづける幼子の姿を目にしたとき、彼の中を何かが突き抜けた。

 少女もまた獣だ。善悪も理性もその中には芽吹いていない、無垢な暴虐の光を備えた目をしている。

 ふと、その瞳があらゆるものを貫くところを見てみたい、と思った。見続けていたい、と思った。純粋にそれだけを、ただ願ったのだ。そんなことははじめてだった。彼の胸のうちに、そのような鮮やかな欲望が宿ったのは。

 そうして少年の彼は、気付いたのだ。

 この子どもをそこに留め続ける力を、自分は有しているということに。

……とても会えないな……枝折(しおり)さんには……

 記憶を辿り、旬欄は朦朧とした頭で少女の母親に詫びたが、そこに慙愧の念はなかった。

 少女は彼を怪物にすると言ったが、ある意味では最初からそうだったのかもしれない。ただ人の形を持っているというだけで、この世に在ることを赦されていただけにすぎない。

「何か言ったの?……ああ、苦しいの?苦しいんだね?そうか、そうか、うん、それなら、きっともうすぐだ」

 少女は喜色を浮かべ、なおも語りかけ続けている。どうあれ、旬欄にはもはやそれを聞いていることしかできない。いまさら口をひらくことが、到底意味のあることとは思えなかった。それは諦念ともまたちがって、彼の心はどこまでも凪いでいた。たしかに死に蚕食されているという感じがするのに、どこか他人事だった。苦痛という警鐘を受け入れることさえ放棄してしまったのだろうか。それとも少女の言葉が麻酔のように作用しているのだろうか。

 それでも、わずかに漏れる喘鳴や圧し掛かるような肺の重さの感覚が、彼の体が懸命に息を継ごうとしていることを伝えていた。

 この期に及んで、体だけがまだ命を維持しようと足掻いている。彼の意思の預かり知らぬところで、彼を生かそうとする力が働いているのだ。もはや彼は生きているという状態を維持するために生きている。

 ……幾度か思ったことがある。野生動物には、消費するエネルギーを最小限にするために狩り以外にほとんど活動しないものが多く存在する。それは、生きるために食事をしているのだろうか、食事をするために生きているのだろうか。だが彼らにとって食事とは、嗜好ではなく生きることそのものに切実に結びついているのだ。

 体が生きるという状態を維持するために、それだけのために生きている。

 所詮、意思は肉体という生命の維持機構の、その副産物でしかないのだ。

 人としては死してなお少女もそれは同じなのだろう、とふと彼は思った。人の血を啜るという食事をしなければ生きられない。飢餓は意思の及ばないところで訪れて、自我を蝕むだろう。それでも体は生きることを望むのだ。心は体に従属している――生きるために生まれてきた限りは。

 淡い憐愍が彼の胸のうちをただよった。

「僕たちね、昼間は動けないんだって。それで夜は食事をしなきゃいけないでしょう?そうしたらきっと前みたいに、きみは自由にはできないんだ」

 だって化け物なんだから、人のなかにもう居場所はないんだから、と少女が告げる。

「僕はそれでいいんだ。だって君がそうしたんだから。こうなる前からそうだったんだから。でも君は違う、君は、生きているころよりずっと不自由で、もうどこにも行けるところなんてありやしないんだ。でも大丈夫、僕がいてあげる。僕は見放したりしないであげる。もう、二人ぼっちの芝居は終わったんだよ。これからは、本当になるんだ」

 少女は彼の衰弱を歓び、死へ近づけば近づくほど饒舌になる。

 けれども、彼の胸にはただ憐れみが広く広く横たわっていた。

 本当に自由になるには、この子は眠っていなければならなかったのだ。それなのに、何者かによって死期を奪われてしまった。安らかな眠りを奪われてしまった。

 それでも、少女の言うとおりならば同情などする必要はないのだ。自分も怪物になるのだから。そう少女は告げているし、それはおそらく同じ性質を有する誰かから教わったことだから、きっと正しいはずだろう。旬欄は自分のその憐愍が、いったい何に由来するものなのかわからなかった。

 少女の頬が、ふっとなにかに覆われた。それが自分の掌だと気づいて、彼は意外に思った。どうしてそんなことをしたのか、やはり彼自身にもわからなかった。ただ今そうしなければならないような、そんな気がしたのだ。

「旬欄?」

 衰弱した体は、もはやその腕を支えつづける力さえ残っていなかった。少女が困惑し、落とすように呟いた名前を遠く聞きながら、彼は思い出していた。

 これは、予感だ。

 そうだった。

 あの繭は結局、何者にもなれずに死んでいたのだ。