二、
少女の朧げな幼少期の記憶は、金木犀の匂いに彩られている。
格子のついた円窓に切り取られた狭い景色。よく手入れされた庭園の向こう側、長い渡り廊下と人々の往来を眺めていたような気がする。
うすぼんやりとした印象の、ひどく解像度の低い映像だ。細部を思い起こそうとすると、それさえ途端に消え去ってしまう。過去を検索しても用意されているのはピントの合わない窓の向こう側、外の景色だけで、自分のいた部屋の構造や調度などはまるで思い出せなかった。
少女の記憶は額装されたたった一枚の絵で、それ以外の景色なんてはじめからなかったかのようだった。
あまりに曖昧模糊としたかすみがかった記憶に、ほんとうはあれは一度きり見ただけの夢だったのではないか、と首を傾げることもある。
その場所がどうやら現実に存在したらしいとかろうじて信じられたのは、ふたりがここへ越したあと、男がときどき行き先に告げていた「本家」という言葉によってだった。
とにかく、円窓からの景色とにおい、記憶にあるのはそれだけだ。男(そのころは彼も少年だったが)にことばを教わったが、誰かが尋ねてきたこともなく、外に出ることもなく、彼がいるあいだはずっとふたりで過ごして、彼に教わったことばを彼と話すためだけに使っていた。
ここへ越してきたあともその生活はほとんど変わらなかった。
ひとつだけ変わった事があるなら、そう、もうひとり、青年が尋ねてくるようになったことだ。彼は自分を少女の従兄弟だと名乗った。従兄弟、というのがどんなものなのか少女にはわからなかったが、親のきょうだいの子どもをそう呼ぶのだ、と教わった。それだって理解できたわけではなかったが、とりわけ興味もなかったから追及もしなかった。
最初に訪れたとき、彼は心底痛ましいという顔をして、鬼籍に入った伯母の子がこんな扱いを受けていたなんて知らなかった、と告げた。少女の存在を知ったきっかけは、伯母の死後にまで囁かれる、女中たちの小言を耳にしたことだったという。家の名に相応しくない女。父親がわからない子なんか産んで。何をそんなに頑なになっていたのか。産後の肥立ちが良くなかったっていうじゃない、きっとバチが当たったのよねえ……。
ときどき聞き取れた言葉は、どれも若くして床につき、蜻蛉(かげろう)のようにやせ細りながらも笑みを絶やすことのなかった伯母の、その姿からは想像もつかないものばかりだった、と彼は語った。それからふと疑問に思ったのだという。父親のわからない子。そんな子どもを、あの屋敷で目にしたことはなかったということを。
そうしてやっと探し出したのがここだった、と青年はほとんど一息で吐き出した。あの家の在り方はとても現代的じゃないし、こんなふうに隠れて暮らす必要はない、自分だけがあの屋敷でのうのうと暮らしているなんてとても耐えられない、というようなことを、ひどく辛そうに男に告げた。
けれどもその切実さを軽やかにあしらって、男は笑った。
でも君、それは無理じゃないかな。君は知らないと思うけどね、世間は私生児には寛容でも、その相手が〝弟〟となると別なんじゃない。
従兄弟と名乗ったひとは、ひととき呆気にとられ、その意味をとらえるとひどく狼狽して、それからただでさえ悲哀の滲んだ顔を一層苦痛に歪めた。それを見てすら男はちっとも、なんの価値もそこにはないというような調子で言葉を続けた。それがいかに相手を希望を抱かせないやり方なのか、よく知っているというふうに。
わかるかい、君の父様も必死なんだよ。だって、その子は君の父様の、あのうつくしい顔にそっくりなんだ。君の父様と亡くなった伯母様が、それからあの子が、あの狭い狭い世界の中でどんなふうに言われるか、想像がつくだろう。
ああ、それに、このことは君のお母様も知らないんだっけ。
男と、従兄弟と名乗った青年とはそのあともいくつか会話を交わしたようだったが、少女はよく覚えていない。寝台の微睡(まどろ)みのなか、わずかにひらいた扉の向こうから彼らの表情や言葉を拾っているうち、いつのまにか眠ってしまっていたのだろう。
――それからもはじめ従兄弟と名乗った、正確には少女の兄にあたる青年はたびたびここへ訪れた。二言、三言ほど言葉を交わし、しばらく葛藤の色の浮かんだ瞳で少女を見つめて、けれどそれだけだった。
少女はそれでなんとなく分かったような気がした。このような暮らしをしていることは、自分の生まれに関係しているらしい、ということが。
それでもそれを不幸だとは思わなかったし、思えるほどの比較対象を持たなかった。香水と煙草の匂いのする男の、その体温とことばとがそばにあればあとは何も望まなかった。彼に与えられたものだけでつくられる自身を、そういう想像を、うつくしい作品のように思っていた。そうやって終わってゆくことになんの不満も抱いてはいなかった。
年齢を重ねること、生き長らえること、そしていつかこのひとはここを去るかもしれないということに気づくまでは。
少女が漠然と死というかたちの幕引きに惹かれはじめたのは、そのころからだった。
*
そろそろと目蓋が開く。
それは意志の力ではない、と男はいつも思う。いったい、誰が自分を無の淵(ふち)から起こしているのだろう。
よく知った天井と照明器具とが見える。視界は暗く、やけにぼやけていて、輪郭が曖昧だ。
焦点を定めようにもうまくゆかない。
率直に、何かがおかしい、と感じた。
寝覚めはよいほうだという自覚がある。けれどもいま、意識はとても覚醒しているとは言い難かった。
起きあがろうとして、ぐうっと体に重しを載せられたような感覚があった。寝台の下にだけ不自然な引力がくわわったみたいに、自重がからだをそこへ押しもどそうとする。結局かろうじて肘を立てただけで、それ以上そこから動く気にはなれなかった。
疲れが出たのだろうか。そういえばここ数日は慣れないこと続きだった、そう思いかけて、
「ああ、ああ、旬欄、目が覚めた!」
天井から下がった白熱電球のぼやけたかたちを、人の顔が遮った。
寝台のそばから覗き込むその表情は花が咲いたように晴れやかで、発せられた言葉はどこか浮ついて弾んだ調子だった。それがどうにも奇妙だった。こんな喜色に満ちた、幼さを残した少女の声を、男はかつて聞いたことがなかった。
――少女?
ふと彼は違和を抱く。
その正体に突き当たるのに数秒の逡巡さえなかった。
だからこそ、疑念はより強いものになる。
声色どころではない。
ここ数日、彼はとりわけ忙しかった――そうして昨日、やっと一息つけたところだったのだ。
原因もわからぬまま死へと転がりおちていった少女の、そのあまりにも簡素な火葬だけの式を終えて。
「君は……」
口に出しかけて、飲み込んだ。君は死んだのではなかったのか、などと尋ねるまでもないほど、少女の死の記憶は未だ鮮明だった。
この子は確かに死んだのだ。
その一部始終を、他でもない自身の目がとらえていた。
――めずらしく少女を連れ出し、夜を外食で済ませた帰り、男――旬欄は知己の女に声を掛けられた。夜気は少女のからだに障るだろう、そう思ってはやばやと切り上げようとしたが、酒に酔って上気した頬の女は構うことなく身の上話を吹きかけ、その間に少女はふらりと姿を消してしまった。その姿をようやく見出したとき、少女は切れかけた電燈の明滅する薄暗い路地にぼうっと立ち尽くし、こちらを、というよりその向こう側を、光のない目のまま見つめていた。
そこから四日をかけて少女は死に向かっていった――たった四日だ。
夜が明けて一日目、少女にとってはいたって普段通りの倦怠感と軽い眩暈を訴え、不調になれていた彼女はこれもまた普段通り、シーツにくるまって眠っていた。二日目になっても快方に向かうことはなかったが、少なくともその日の夜までは、明瞭とは言い切れないまでも問いかけに返事をすることくらいはできていた。
ところが三日目の朝、念のために呼びつけておいた本家抱えの医者が到着したころには、すでに意思の疎通さえままならなくなっていた。唇はひどく青ざめ、手足からは熱が奪われ、素人目に見ても明らかに危険だとわかる状態だった。
救急車を呼ぶために携帯電話を取り出したとき、寝台から細白い腕がゆるゆると伸びてきた。
指先で旬欄の袖口を掴み、少女は弱々しく首を横に振った。もはや呼吸すらままならないからだを抱えていながら、その瞳には堅固な意志の光が宿っていた。
他ならぬ少女自身が、そういう終わりを選びたがっているのだ、と思った。
旬欄にはその切実な、祈りにも似た願いを理解できた。自分達の在り方はそう、行き詰まっていたのだ。彼の抱いていた少女への感情というものは、同情でも偏愛でもなかった。物語を読み耽る夜のあの熱情、それと同様の、淡い陶酔を伴った執着だった。未分化で、未知でありつづけなければいつか飽いてしまうのだと、互いにわかっていた。
途中で手放したりしないかぎりは。
ふうっと息を吐き、腕を下ろすと、携帯電話をチェストに置いた。少女の細い首に手をかけるのと、それは同義だった。そうだろう、と告げるように少女に頷いてみせると、その瞳にひとときたしかに、安堵と法悦の色がよぎった。
そのあとは本当に早かった。下り坂を転がり落ちるように刻一刻と症状は悪くなり、四日目の朝、少女のからだは死を受け入れた。
医者は患者のあまりの急変ぶりに頭を悩ませたが、しばしば生来の免疫不全による不調、摂食障害、貧血の諸症状で診療を受けていた少女のその死は、結局免疫機構の障害か多臓器不全あたりで片がついたらしかった。
そうとなれば、早急な手続きが必要だ。医学的な死亡の診断が降りてすぐ、旬欄は彼女の父親――本家当主に連絡を入れた。だがその返答は、すべて任せる、の一言だけだった。電話越しの、その瞬間にも誰かに聞かれてはいまいか辺りを伺っているふうな押し殺した声色に、なぜだか口元が緩んだ。貴方を煩わせる者はいなくなったのに、もっと喜べばいいのに、と。
旬欄は地域と「葬儀」という単語で検索をかけ、いちばん上に〈広告〉マーク付きで表示された葬儀社のサイトにアクセスした。トップページには昨今の需要を汲んだのだろう、「家族で見送る」のロゴが掲げられ、小規模なプランがいくつか並んでいた。訃報を入れる相手が少女の兄のほかにいないことを鑑み、彼が選んだのはもっともシンプルな火葬式だった。
打ち合わせに来たスタッフの若い男は、十代の少女の葬儀に両親すら参列しないことについてひとつも怪訝な顔をせず、この度はご愁傷様でしたといって〈イヌカワセレモニー〉と書かれた名刺を差し出した。地域密着型の規模の小さな葬儀社らしかったが、若いわりにずいぶん手慣れたそつのない対応が印象に残った。
結局、冬という時期柄もあり、式の日取りは死亡の診断がおりてから五日後ということになった。
安置された少女のからだは不思議と、死体、という感じがしなかった。処置がなされているとはいえ、かつては柔かったはずの肉には生きていた頃の名残さえまったくなく、人形のように清浄だった。
母のとき――彼の母親は幼少の頃に亡くなっている――はこうだっただろうか、と旬欄は思った。記憶の中では、あのとき母の体には生物が生物であったがゆえの、肉体の終わり、生々しい死の気配が僅かに漂っていたように思う。不浄の香り、本能的に背筋が粟立つような、微かな悪寒が。それともそれは、幼年期特有の感覚が、胸の中に記憶として保存されているだけなのだろうか。
少女の火葬を終え、炉から出てきた棺の中にはさらさらとした灰があるばかりで、ほとんど骨は残っていなかった。
予感していたとおり、およそ感傷と呼べるものはひとつも湧かなかった。けれども彼の心の中にまだ執着の熾が残っていること、あの熱情があり続けていること、それをたしかめて、やっと心臓を手に入れた、という気になった。少女は死によって、過去になることによって、機微を持ち合わせた人間に生まれ損なった男の、その薪になったのだ。これからもここに(この心臓に)、一点のあざやかなものをくべ続けてくれるだろう――
すべてが終わり、そう思った瞬間のことをはっきりと覚えている。
――現に、いま彼の手を握る少女のそれは、とても血が通っているとは思えない硬質な冷たさだ。
おまけに彼女が身につけているのは、葬儀社が用意した経帷子(きょうかたびら)ときている。
「驚いたでしょう、無理もないよ、僕だってそうだったもの」
でも、と少女ははしゃいだように身を乗り出す。からだの無機的な温度とは対照的に、その言動は今の方が生前よりずっと生き生きとして見えた。
「でもここに居るのは本当に僕だよ、起き上がったんだって、それからね、僕の獲物も起き上がるんだって、そう言ってた」
恍惚とした表情で少女は捲し立てる。気が急いているのか、その話は要領を得ない。
「……起き上がった?」
「そう。あのね、死ぬときってね、すごく苦しくて、からだが生きるのを諦めようとしてるのがわかるんだよ。閉じていく感じがわかるの。なのに、目が覚めて、ああ生きていたんだ、なんて思って、たぶん安心したんだ、僕、ほんとうは死にたくなんかなかったのかな」
その内容とは裏腹に、少女の声色は相変わらず無邪気で、どこか浮き足だっている。
以前なら、けしてそのような言葉を口に出したりはしなかっただろう。かつての少女が実に命を賭すほど切実な思いで自身に課していた抑圧を、いまは軽々と無碍にしているように思えた。
まるでそんなことよりも大切な事実が目前にあるかのように。
「でもね、違うんだって。僕はやっぱり、ちゃんと死んだんだって。それで起き上がったんだ。でも生き返ったわけじゃない。このからだはね、今も死んでるんだよ」
だから呼吸だっていらないんだ、と、にこにことして少女は告げる。四肢の冷たさにばかり気が向いていたが、そう言われてみれば、息をしていれば起こるはずの胸郭の膨張や収縮も、肩の僅かな上下も少女にはみられなかった。
それでも、〝起き上がった〟というのはおかしい、と旬欄は感じた。それは非現実的な事実を受け入れられないというのとはまた違う理由で。
少女のからだは燃え果てたはずなのだ、この死装束ごと。
キリスト教圏の葬送の様式が一般的に土葬であるのは、最後の審判において全人類は一度蘇り、そののちに判定を受けるとされているからだ。
そう、幽霊ならばともかく、復活にはからだが必要なのだ。
死者の蘇りという言葉の前で道理や節理を語るのは不自然かもしれない。けれども、事実それが昔から支持されてきた認識で、たとえその文化圏になくとも御しやすい理屈だということには違いないだろう。
それとも、そもそもこんな事象を人間の理解の範疇におさめようとすること自体が間違っているのだろうか。
そう思って、はたと気づいた。
厳密にいえば、彼は少女が終わりに向かうすべての過程を見たわけではない。火葬場――そこで見たのは、棺に寝かされた少女の姿と、そして炉から出てきた灰だけだ。
起点と結果。そのあいだのことを見たわけではない。
参列者が立ち入ることができるのは炉の前室までで、その先は葬儀社の人間に任されている。
思わずちらりとベッドサイドに目をやった。葬儀社の男から手渡された無個性な名刺が、静かに、けれどもたしかな存在感を放って彼の目に映った。
まさか。
そう思うが、否定しきれない。
不思議だったのだ。少女が伝聞の形でものを語っていたことが。こんな事象の説明ができる者がいたとすれば、それは少女と同じ、異形ではないのか――
けれども、彼の逡巡はそこで打ち切られることになった。
「ねえ、聞いてよ」。
少女が口にしたその瞬間、そうしなければならない、と本能が訴えた。
その声が、言葉が、何より優先されるべきものとして彼の意思をいともたやすく覆す。
まとまりはじめていた思考が、少女の次の言葉を待つためだけに靄にくるまれていく。水に垂らした絵具のように自我の境界がぼやけて滲み、ただその声と言葉とを受け入れようとしているのがわかった。
それをどこかで心地好いと感じている自分がいることに、旬欄は気づいていた――甘やかな、そして快い従属。
「本当だったんだ。いうことをきくって」
その様子に気を良くしたらしく、少女はふ、と目を細めた。
冷えきった両の手で彼の頬を包む。虚ろに揺れる瞳の奥、そこにいる彼自身の意識に語りかけるように、ゆっくりと言葉を続けた。
「いいかい旬欄、大丈夫なんだよ。噛まれるときは少し痛いし、死ぬのは苦しいけど、でも大丈夫なんだ。食事の相手はね、起き上がるんだ。僕がそうだったみたいに。だから大丈夫なんだよ」
安堵を与える言葉をそれしか知らないみたいに、少女は「大丈夫」を繰り返した。口にするのは実年齢よりもはるかに語彙に乏しい台詞であるのに、半月のかたちに細めた目はどこか冷ややかで、怜悧さをひらめかせた。それらが恍惚に上擦った声と混じり合い、静かな高揚を感じさせた――今にも堰を切って、理性が溢れ出すような。
「ああ――だけど、そうだった」
ひとときもその目を逸らさないまま、けれどもぽつりと、少女は思い出したように呟いた。
「ねえ旬欄、このからだはね、生きているときよりもお腹が空くの」
もはや口をきくのももどかしいというように、末尾はひどく震えていた。
旬欄の肩は少女の手によってふたたび寝台に押しつけられた。こんな力がどこにあったのだろうかという疑問は、思考を包み込むやわらかな膜によって有耶無耶になった。
少女が口を開くと、ちいさく可愛らしい歯が並んでいたはずのその下顎にするどい牙が光り、次の瞬間首元に食い込む甘やかな感覚があった。彼は少女の、「食事」という言葉の意味を理解した。
どうして自分がここにいるのか、ドアを開けて何が起こったか、彼はようやく思い出した。
そうか、吸血鬼だな、と、判然としない意識の中でぼんやりと思った。