最初から怪物みたいなひとはいて、たしかにここにいて、だからきっとこれはただしいはずだったんだ。


 一、


 これ以上ないくらい頑是なく、少女は違和感に首を傾げた。
 ここには入れない。
 僕のうちなのに。
 長いあいだ暮らしてきたはずの、ごく平凡なマンションの一室、その見慣れたドアは、いま固く閉ざされ鉄壁のように聳えている。
 ノブに触れようとして、指先がその意思を頑なに拒んだ。
たしかな境界をそこに感じて、思わず身が竦む。意識では抗えない。禁則行為だとからだで分かってしまうーーなぜ?
 数秒の空白を経て少女に湧き上がったのは、烈しい苛立ちだった。
 屈辱と羞恥を覚えたのは、お預けを食らった獣のようだと思ったからだ。
 けれど少女の理性はとうに本能が追い越していて、その感情の正体が焦燥でありもどかしさであるということに彼女は気付かなかった。
 忘れていたのだ。いま、からだがまさしく獣めいた飢餓に襲われていることをさえ。
 理由ならただひとつだった。
 神(そんなものがもしいるのなら)からやっと与えられた、極上の褒美。
 地底のような場所で、おまえは血を求めて生きる怪物になったのだと、それは獲物にも同様に訪れる運命なのだと告げられたとき、それは救いのような気がした。
 少女に言葉を教え、世話をしてきたのは、この扉の向こうにいる男だった。年は十ほど離れていて、少女が自我を認識しだしたころ、男はちょうどいまの彼女と同じ年頃だった。
 彼はいつもちがう煙草と香水の匂い(それがそういう名前だと知ったのも最近だ)がした。彼のからだがまだ今ほど節ばってはいなかったころ、少年のころからそうだった。彼自身が煙を喫っているのも香りを纏うのも見たことはなく、もしかしたらそれはほかの誰かのものだったのかもしれない。昼間、彼が何をしていたのかを少女は知らなかった。ときどき電話で、本家、という言葉が語られることがあったから、ここへ越す前にいた屋敷へ足を運ぶこともあったのだろう。学校というところにも行かないで、それで平気だったふたりの暮らしは、たぶんそこから送られてくる小切手や毎月届く安からぬ通信教育教材のお陰だったけれど、そのことに疑問も関心も抱かなかった。
 ……疑問も関心も抱かないこと、それで成り立っているのだと知っていた。
 彼からは何も教えられなかった。それが計算づくであるということだけがただ少女にわかっていることだった。
 見棄てられることを仮定してそこにはじめて恐怖を見いだした日、それが生存戦略ではなくごく個人的な切望なのだということをも同時に理解して、祈りは、抱いたその瞬間にもう手折られていた。駆け引きは最初から負けが決まっていて、あとは引き延ばすだけで、ここ幾年はその引き延ばしの日々に他ならなかった。
 本当の顔なんて知りたいとも思わない、という白けた余裕も真実だったし、すべてを把握したいという願いもまた等しく真実で身動きが取れなかった。彼はその不均衡に頽れてゆく姿をこそ愛でるような目をしていた。怪物とは、思えば彼に与えられた名前ではなかったのだろうか、と声にも出さず少女は喘いだ。
 そのあいだにもからだは衰える。大人になり、子どものうつくしい無知はやがて軽薄と呼ばれるようになる。それでも、それでももし傍にいることを望んでくれたなら、もし、もし、もしかしたら。その仮定に疲れ果て、病に好まれた体が幸運だとさえ少女には思えた。
 その矢先の死、その矢先のいまこの姿、「血を奪われた者もまた怪物になる」という、言葉だ。
 それが救済でなくてなんだっただろう。光に満ちた宣告、果てのない幸福でなくてなんだっただろう。
 そう、いま、自分は怪物なのだ。それはきっと彼にとって美しい事実のはずだ。そうして彼もまたほんとうの怪物になれるのだ、やっと。
 生あるものの家に拒まれるのは当然だ、と思えて、苛立ちはいつしか消え去っていた。むしろ異形という意識にやけに芯の冷えた高揚があった。
 呼び鈴を鳴らすとすぐ、はい、どなたでしょうかと機械越しの声が返ってきた。耳元で動いていないはずの心臓の音が脈打った気がして、少女にはそれが歓喜だと思えた。生きていたころ頑なに捻じ抂げてきた感情が、いまはすんなりと表出できた。不思議だった。同じ年頃の人間は皆、こういうふうにして生きていたのだろうか。もう人間ではなくなってからそれを知るなんて、ひどく滑稽に思えて可笑しかった。
「開けて」
 試すように、ためらうように一言だけをインターフォン越しに伝えた。
 沈黙のあと、家主の訝る心情をそのままにわずかにドアが開いて、男が顔をのぞかせた。
 糊のきいた黒いスーツは喪服だろうか。けれど憔悴も悲哀もそこにはなく、彫刻めいた相貌にひとつも影を落としてはいなかった。瞳は常に鳩血色に満たされていて、少女の死を悼んだかどうかなどもはや知ることは叶わない。
 それでも、そこにひとかけらの驚嘆が宿っていることに少女は気を良くした。
「……君は」
「教えてあげる」
 赤い目が少女の瞳に映る。それは血の色だ。熟れた果実の匂いがする。
 獣のような乾き、これはなんだっただろう、と、少女は言葉を吐きながらその感覚の名前を探す。
「これが僕たちのただしい答えだったんだ」

 ……ああ、思い出した、僕は、ひどくお腹が空いていたんだ。

 それは瞬間風速的な本能であって、確固たる意志でもあった。頸筋に立てた牙の沈む感覚が心地良かった。今までだって噛んで噛まれてという遊戯は何度も行われたけれど、そのようなものはごっこ遊びでしかなかったと思い知った。この、するどい歯牙の圧倒的な力のまえでは。陶酔で目眩がした。肌はやわく、あたたかで、生きていることはこんなにもうつくしくやさしい。血は蜜より甘く、この世界にこんなにも幸福をそなえた味があったのかと思った。賛美と警鐘。人間としての最後の抵抗はあっけなく屈する。ああ、僕は怪物だ、というけして不快ではない自覚とともに、たしかにそこに祈りと法悦とがあった。
 これはきっとただしい。
 だって彼は最初から怪物のようなひとだったんだもの。
 言い訳じみた言葉をただ繰り返しながら、少女は最初の食事をゆっくりと愉しんだ。







※補足
友人作の『屍鬼』(小野不由美)×クトゥルフシナリオを回したのちに書いた現パロ吸血鬼シリーズです。
吸血鬼の設定は『屍鬼』(小野不由美)に依り、
•死んで起き上がるかどうかは確率
•蘇生ではなく死体のまま
・招かれないと家には入れない
となっています。