傷つけるための高揚ならおぼえている。

それだけは。からだが熱をもって浮遊するかんじ、だけど安堵に似ていたんだ。

 ずっとおさなくまだあの箱庭でプラネタの空をそうとはしらず眺めていたころのこと、父や母と呼んだひとたちと、あの子どもーーこうよぶことをいまになって許されるのならば〝妹〟が、記憶のなかにはいつもいて、だけどそのすべてが半睡の夢だったのじゃないかと思うことがある。よみがえるのはたしかに抱いた感情だけ。たとえば一夜の夢が消え、中身なんか忘れつくしても、機微の残り香だけは朝の寝台に置き去りにされているみたいに。

 傷つけるための高揚ならおぼえている。

 それはたぶん、罰のように。





プロンプターの耳打ち



1


 照光(ひざし)の強い日だ、と思いかけて、そうではないと旬欄は自身を糺した。

 あの子なら、粒子(ひかり)のよく降る日とよんでいる。

 ほんとうにそうだった。塵のような微細なものから、割れた硝子の破片ににて質量を伴っているようにさえ見えるおおきさのものまで、それらすべてがきらきらとひかっている。

 外部の光源を反射するのではなく、それは内発的な明かりだった。ひとつひとつがびっしりとあつまった空間を構成する光の要素で、それらの混ざりあう具合でちょうど〈外〉の照光(ひざし)のように陰翳はつくられた。

 すこしまえまで、あの子はこの光景を夢見るように、それでいてときどき心底憎んでいるみたいに見つめていた。

 理由をたずねるときまって同じこたえが返ってきた(その子がじぶんがかつてそう返したことをおぼえているかはわからないけれど)。

 〈ほんとう〉は、あんたの生まれた場所はこうではないんでしょう、と。

 言葉にされないそのつづきを翻訳するとこういうことだーー「どうせそこへ連れていってくれる気もないくせに」。

 あれから、癇癪のあるところは相変わらずにしても、そういうするどさをあまり見られなくなったように思う。なにかにおびえているためにわざと傷つきにいくような危なっかしさ、こわされるのをおそれるために別の方法でさきにじぶんをこわしてしまう、暴力的で、そのくせ冷静で整合性のとれた矛盾、そういうものがうすれて、いまはただわがままなだけの子どもらしい子どもに見える。

 おだやかだといえばきっとそうだろう。

 たぶんいままで生きてきたなかでいちばん人間らしい時間をすごしている、と旬欄は思った。あの子ではなく、じぶんが。このこころのなかに人並みの情はあるし、いつか奇跡はおこるかもしれないーーそう錯覚してしまえるほどには。

 錯覚だ。

 もちろん。

 うつくしく思えなくなった、それだけの理由で、何年もかけて育てた花をすべて切り落としてしまった、ひえびえと醒めた意識を忘れたことはいちどもない。それこそがじぶんなのだ、という俯瞰的な意識を忘れたことなど。

 それはそうだ。あんな約束を平気でしてしまえることが、なによりのーー


「あなたは」


 どこからか声が響き、はじめ、それを幻聴かと思った。

 ここにあるはずのない、じぶん以外のテノール。さっきまでが夢で現実によびもどされたのではないかと疑ったが、ゆっくりと顔を上げると、たしかにひとのすがたがそこにあった。

 青年だった。

 赤みがかった鳶色の髪をひとつに束ね、澄んだあさい海のようなひとみ。

 知っている、と思った。

 それがだれだか一瞬でわかった。

 ひどく懐かしいような感じがして、まだ名づけるにもいたらないおさない感情のいくつも凝縮されたものが、どうっとよみがえってきたーー同時に、それが自分自身の記憶から生じたものではないこともまた明白だった。あのときのーーあの白いこどもと同期したときの、完璧な二重奏の視点。それから共有によるあまい快感。

 ふかぶかとそれをあじわったあと、あの装置、後遺症があるなんて存外厄介だなどと思いながら、旬欄は青年に声をかけることにした。

 それ以外に考えられない、ぴったりのよびかたで。

「やあ。"兄さま"」

 青年の、透きとおった碧い目がみひらかれた。





「まさか、あなたが」

「そう思う?」

 疑問のかたちで返したけれど、はっきりとした否定だった。ふたりぶんのグラスに水をそそぐと、瓶に活けてあったばらをふたつその蕚から手折り、そこへうかべる。 水にふれたばらは一瞬のうちにやわらかさと色とをうしない、硬質に透きとおり、うつくしい花の形をとどめた氷になった。

 あの子どもがーー帝がいつも食事をする椅子は、いまはひとりの青年に譲られている。

 おわりをみたことがない、どこまでもつづくながい机のその白いのりのきいたシーツは、あの子どもがどれだけよごしてもいつのまにか一点の曇りもないしろさにかえっていたことにいまになってふと気づいた。

 壁には白地に銀箔でえがかれたいくつもの肖像画がならんでいる。ドレスやタキシードをまとったひとびとの頭部は、どれも貝のかたちをしている。さまざまなかたちーー螺旋、扇、紡ぎ糸。それからうんと高い天井には、どこの文化のものとも特定できない、簡素で緻密で原始的で高文明的なーそれじたいは変わってはいないのに、形容しようとするたび遊ぶように印象だけをくるくるとかえながら、ただひどくととのっている、ということだけをはっきりとしめす彫刻がほどこされていた。

 星図によくにているし、ほんとうにそうかもしれない。

 点と線をつないだだけのもので、その点と線のありかたがとにかく完ぺきだった。

 ここにあるものは、すべては白という印象に集約される。むだがなく、不足もない。柱も、カーテンも、肖像画も。上質で無菌の、ひろびろとした迎賓室。どうしてこんなものが必要だったろう。閉じた箱庭でありながら、ここには外部からの客を迎え入れる最高級の用意がある。

「いいえ……ただ、確認をしたくて」

「それじゃきみのなかで、俺がきみの妹である可能性がどれくらいかはあったということ?」

 半分は皮肉、半分は冗談のつもりで笑って尋ねたが、青年は愛想のよい微笑を返しながらあきらかに困惑していた。傷ついているようにさえみえた。なぜじぶんが会ったばかりの男に軽がるとあしらわれているか、そこにどんな真意がかくれているのかをほんとうに思案して、それで途方にくれている、といったふうだった。

「でも、兄と仰ったものですから」

「そうだった」

「それとーーあなたは、僕のことをきらいなようだから」

「きらい?」

「いえ、その。僕がそういうふうに思っただけで……」

 かれの碧い瞳がいちど目蓋にかくされ、それからふたたびひらかれた。たしかに整っているけれど、似ていないなとおもった。なにも、ひとつも。かれの〈妹〉に。

「あの子に会ったことがあるんですよね。僕を知っているみたいだから」

 ていねいにことばを択んでいるということがわかった。それは礼節とはまたべつの意味でだった。あの子、ということばにたいする補足はなにもない。ていねいではあるが、むしろ不親切だった。共有していることを前提とし、説明を放棄している。わざと。それはかれの、無意識下の演技だからだ。じぶんを舞台の中央へ導くための。目前の相手を観客にしてしまうための。謎をのこし、質問をさせ、自分はそれにこたえる、あるいは相手との情報の共有を仄めかす、そういうかたちで自らをかたろうとしている。だから期待どおりの返答がないとひどく困惑することになるし、好意的でないといっそうこまるのだ。

 かれは聞き手をもとめているのだ。

 かれの物語の。

「知っているかと言われると、うん、知っているけど」

 事故みたいなものだよ、とわらうと、青年はまじめな顔で、事故、とおうむ返しをした。

「あの子から直接きいたわけじゃないよ。俺がきみをきらっている、っていうのだって、なにかしらの先入観があるからそう思ったんじゃないかな」

「あの子は僕については、なにも?」

「そう、なにも。

言ったろう、きいたわけじゃないって。

やっぱり、事故というのがちょうどいいな。信じられないだろうけど、……いや、きみもここにいたなら何があっても不思議じゃないってわかるかな。

あの子の記憶そのものを識っているんだ」

 こういうのも知っているとか記憶にあるとか言うのかな、俺の記憶じゃないのに、と冗談めかして言ってみたものの、返答はなかった。何かを考え込み、よりじぶんのふかい場所へもぐろうとしているようだった。ただしくは、そういうふうにみせるポーズ。なにかことばをーとりわけ過去のことを重要で意味のあるもののように丁寧にかたろうとするとき、ひとがおこなう沈黙の象形(ジェスチュア)。無意識の誘導。

 話すのをやめ、かれのための静謐を用意してグラスを差し出した。

 つづきをうながすように。

 青年はグラスの水をひとくちふくみ、それからゆっくりと唇をひらいた。

 その唇を、少女みたいにみずみずしいな、とおもった。

 まだじぶんがけがれないと信じていたい少女のようだ、と。



 まず、妹という表現に注釈を添えるところからはじめなければなりません。そこからとりかかったほうがいちばんでしょうーーと、かれはいった。