オルゴールの音色。

 それから、巨大な歯車の音だ。

 ごうん、ごうん、重く質量のつまった、規則的な。

 それは鼓動ににている。

 黒い髪。

 するすると肩にかかる、ほつれたひとすじにまで恐怖を塗りこんであるみたいに、そのひとのまえで「ぼく」は無様であるしかない。

 ふくらんだ胸。

 やわらかい肌。

 すらりと伸びる指。

 ととのえられた爪とその甘皮。

 このひとの空虚の眸はそれらを損ないなんかせずうつくしいままで、だから「ぼく」はずっとそのやさしい曲線のなかへ抱きとめられたかったのだということ、それが叶わないということを、いっぺんに知る。いつだって。

 このひとを、こんなにしたのは「ぼく」だ。

 やがて柔和なほおえみを浮かべた唇がひらく。

 「ぼく」はそのときはじめて、この記憶には声がともなわないことに気付く。

 これが記憶だということに気付く。

 無声の記録映像。

 きこえるのはじっさいにそこにある環境音とはべつのものだけ。

 オルゴール。

 歯車。

 語られていることばは読みとれず、赤い赤い唇だけがゆるゆると動いていた。

唇からこぼれだす音をもたないなにかは、だけどナイフに代わる魔法のかかった旋律だったのかもしれない。それらは鋭利で、ながれだすことばの気配が「ぼく」をずたずたにしていった。彼女のゆるやかな、爆発的な機微のゆれ、その「意味」――そう、「意味」だ。かたちをもたない「意味」、くりかえされる軽蔑と憎悪の体系。ことばを介さずに、理解を待たずに、直接的にその「意味」だけをたたきこまれ、感情をひきだされる感覚。唇の動きだけが拡張されてこの目にうつった。スポットライトがあたったみたいに。こんなにちかくにいるのにもうにどとそのひとの顔をおもいだせない。とてもうつくしかったようにおもうのに。眸のいろはどんなだったっけ、目鼻のかたちはどんなふうだったっけ、輪郭を象ろうとするほどわからなくなっていく。「ぼく」はそうだ、まっすぐにこのひとの顔をちゃんと見つめられたことなんかない。赦されなかったのではなくって「ぼく」のほうがそれをできなかったからだ。

 いつだって怯えていた。

 降りくることばがなにを語っているのかちっともわからないくせに、それでもこわくてたまらなかった。それどころかことばのきこえないことに安堵さえした。「ぼく」がこわいものは、いまここにある恐怖、それじたいではなかったからだ。救いあげてほしいひとにきずつけられていることや、これほど近くにいてそのからだの温度をきっとこれからだって共有してもらうことができないということや、できない、そうわかっていて求め続けながらいきてゆくことーーそれらだって、たぶんそれは痛みというには適切だけれど、だけど恐怖は、その理由は、そういうことじゃない。

 もっとべつのところにある。

 おそれの起源は。

 それはこのひとをこんなふうにした「ぼく」のふるまいのことだ、それを、そんなにだいじなことを、「ぼく」は思い出せない。

 思い出してはいけない。

 「ぼく」がいったいなにを恐れているのかを。

 そこへたどりつこうとするたび、意識は混濁してなにもわからなくなっていく。

 わからない。

 わからないことは、こわい。こわいのに、だけど理解してしまうことは、それよりずっとこわかった。

 だからこの記憶は無声なのだ。

 このひとのことばのなかに答えはあって、それを読み取ること、それがどんなに危険かを知っている。

 やがて、こんどは「ぼく」の唇が動く気配がした。

 動く気配ー動かすのではなくってこれは記憶で、その再生だから。

 ごめんなさい、と言った、のだとおもう。

 謝罪のことばを、そのひとがそう言うように告げたのだ。唇のかたちを模倣してなぞらえただけの。そうでなければことばを教えられていない「ぼく」が口にできるはずもなかったのだから。

 何度も何度も反覆してこわれたおもちゃみたいに懸命に。拙く口にするたび「ぼく」の螺子がひとつひとつとはずれていってもうなおせない気がした。

 そう、

 オルゴールの音色。

 調子っぱずれの。

 だけれど、

 赤い唇、

 黒い髪、

 柔らかな恐怖と憧憬の立像、

 その肩越し、

 扉の格子のむこうに見えた姿に、「ぼく」の時間は強制的に停止された。

 そのひとは、「ぼく」をみていた。

 目を奪われたのだった。

 切り揃えられた白い髪。

 すこし広い肩幅。

 ずっと高い背丈、

 硬質で平坦なからだ、だけれどしなやかさも併せ持っている。

 白い着物を羽織ったそのひとに。

 あざやかな熱情がいっせいに開花した。

「ぼく」のこころを褥にいつしか病巣へかえていた種が、蔓を伸ばし食い破って花弁を広げるみたいに。

 それは「ぼく」を操作する。

 あらゆる感情の機構を排除して強制する。

 あのひとに触れなくては!

 あのひとにさわってもらわなくては!

「ぼく」のからだすべてがそうさけんではざわめいていた。いまも目の前にある、赤い唇にながしこまれていた恐怖と憧憬とをたやすく更新する。そんなものよりずっと強く烈しい、形容できないぐちゃぐちゃの快美をどうしようもなかった。正体を知らない。けれど法悦とよろこびに顫えてきっと「ぼく」のほおは綻んでいた。

 そう、それはよろこびだったのだ。

「ぼく」の視線をとらえ、その意味を悟って、なにかが視界を掠めた。腕だ、と思ったのと衝撃は同時で、髪ごと掴まれ引き上げられた頭が軋む感覚だけ余韻のようにあとに残された。これほどの兇暴さをほそい腕のどこに隠していただろう。赤い唇がぱくぱくとなにか吐き出している。こんどこそまるで笑みの気配さえない、やっと金属質の、表情と調和した明確な憎悪のかたち。

 だけれど「ぼく」にそのナイフはもう刺さらなかった。

 すっかり更新されてしまった衝動によって。

 うつくしい、かわいそうなひと。

 どんなことばも無意味にかわりはて、関心をうしなった。憧憬も畏怖も無価値になった。「ぼく」を包み入れてくれることを祈るように待った、そのやわらかく細いからだに阻まれ、いまはもどかしくさえあった。そうだ。こんなひとに。こんなひとに構っている暇はない。あのひとの、「ぼく」はもっと近くにいかなきゃいけない。あんたなんかじゃまだ。あんたなんかいらない。あんたなんかあのひとにはふさわしくない。あんたの、役目はもう終わったんだから。あんたなんか、……「おまえの白い髪は、役立たずだ!」

 声。

 声だ。

 余韻をあじわう間もなく割り込まれたシーン。まったくべつの記憶の断片。

 そんなことがずっと繰り返されている。

「ぼく」を見下ろし、のぞきこみ、この頬にかかるのはこんどは黒い髪でも、うつくしく切り揃えられた白い髪でもない。

 鳶色の髪、水の宝石のようなひとみ。

 ねえ――

「ぼく」はそのひとへ語りかける。記憶なのをわかっていて。干渉できないことを理解のうえで。いつだってだれかへではなく、過去それじたいへ投げかけてきた、どうしようもない問いの数々を。

 ねえ――

「ぼく」はあんたをきらいになったりしない。うらんだりねたんだりしない。だからおしえて。どうしたらいい。ただそれだけを、どうかおしえて。どうしたらいいの。どうしたら「ぼく」もそこにいられるの。あんたの、まねをしただけじゃたりないの。どうやったら、そこへとどくの。あのひとたちの腕にもういちど抱きとめられるためには、あんたみたいにされるためには。あんたにみたいになるためには!

「ぼく」もつれていって、ふたりをどこにもつれてゆかないで、おねがいだから。きっとかえってきて、まっているから、ずっとここで、ぜったいはなれたりしないから。まっているから。お願いだから、父さまを、かあさまを、つれていかないで、

 兄さま――

 

 

 

 

 ゆっくりと寝台から起き上がりながら、睡りから現実へ移行する彼の意識はまずうすぼんやりとした違和を読み取ることからはじまった。ついいましがた見ていた夢のなかにーー

 夢と、呼んでいいのだろうか。

 醒めながら忘れてゆくこともないそれを?

 結末をむかえて観客だけがのこされた劇場。そういった感覚に近かった。なにかを観た、という感覚。それから、だけれど舞台や映画ではけしてありえない、主観を伴ったあざやかなヴィジョン。

 違和のありかは、そこだった。

 それは「ぼく」の記憶だった。

 そう、「その中」にいるとき、これはたしかに「ぼく」の記憶であると認識していた。けれど彼の中に積み重ねられてきた記憶のどこにも、あの情景に相似するものはひとつもなかった。

 あんな光景を、あんな人びとを、あんな主観を、彼は知らなかった。知らないはずだった。そうにもかかわらず、そこがどのような場所であり、それらがどのような人物たちであるかをなんの障壁もなく理解できていたのだ。

 「ぼく」そのものに完全にすり変わっていたわけではなかった。「ぼく」のなかには彼自身の意識も息づいており、ふたつの主観はすこしの時差もなく織り交ぜられ、というより溶けあっていたのだった。そこでは彼は「ぼく」であると同時に彼自身であり、わかつことはできなかった。世界はふたりぶんに拡張された感覚の二重奏のなかにひろがっていた。共感というものが言葉のとおりに存在するのならきっとこういうふうだろう。幾重の透過層(レイヤー)が織りなす一枚の絵のように、ふたつの主観は完璧に共演して、ひとかたまりのまったくあたらしい認識体系をつくりだしていた。ふたりの主観でなわれた、ふたりのどちらのものでもないまったくあたらしい視点。直接的な主観と俯瞰的な客観がなにも矛盾せずなめらかに継ぎ目なくまざりあっている。そのような感覚を彼はしらなかった。

 知らなかったけれど、

 音楽だ、とおもった。

 二重奏。

 不思議なことにそれ以外のことばが見つからなかった。その景色の中ではオルゴールのような音色の旋律がゆるやかに流れつづけており、けれどそれがあの場面(シーン)にほんとうに存在したのではないことも彼にはわかった。むしろあのオルゴールの旋律こそが景色をえがきだしていたのだ、と直感した。音をたよりにした映写機。だれかの記憶をつらねた音たちは耳殻をとおってこのからだにねむる意識もまたからめとり、ふたつの主観をまぜあわせてひとつにし、生々しい記憶を上演したのだ。

 そこでは彼と「ぼく」の意識とは不可分であって、完璧に共感(ユニゾン)した第三の視点でおりなされていた。その記憶は烈しい痛みや怯えを孕んでいたけれど、いま彼のからだにたゆたうものは熱っぽい快さだった。馥郁とした残り香。だれかと共有するということ。繊細で敏感な感覚を同調させるということ。直接的に意味をとらえること、身体的な領域を消去、からだのカーヴを、皮膚を、臓器を、血を、すべてを透過してふれるということ。ふかい部分で、けしてさわれない、感情のゆらめきをなであい、くちづけをし、おぼれること。炭酸水の泡のようにつぎつぎに弾けて消えてうまれる、自分のものではない機微…

 それは、いま、あの子も同じだろうか?

 皮膚ではなく感覚と記憶をさわられた「ぼく」も、そう、ここにいるのだ。

 彼はわかっていた。

 その子どもがだれなのかということは。

 寝台のそばのチェストに、ガラス製の小さなオルゴールが破片となってちらばっている。

 

 

 

 

 

 

「おにいさんがいたの?」

 じゅうぶんだった。

 それでじゅうぶんだった。

 なにが起こったのかを、ふたりのあいだで共有するのには。

 そのせりふだけだけですべて語りつくすことができた。

 ことばのすくなさはなにか当たりさわりのないことをという意図からではけしてない。僕への、まちがっても遠慮のたぐいではなかった。

 こういったやりかたをかれはとくいだ。

 寓話をおしえるみたいに、だけど、僕の、僕らのあいだではもうじゅうぶん直截的だ。

 このひとがここにまだいて、飽くことなく訪れて、ことばを交わせることすら奇跡みたいなこと。

 星を模したオーナメントがいくつもいくつもきらきらひかっている。白い宮、きみの称するところの巨きな子ども部屋、ここに僕のいることをどうやって知ったのだろう。この場所はとてもひろくて、そのうえ27時の鐘の響くたびすべてが変わってしまうっていうのに。

 奇跡みたいなこと。

 いつまでゆるされるだろう。

「〈観た〉の?」

 問いを問いで返したって、こたえになっていない、とかれは糺さない。こたえなんかはなから求めていなかったから。

 まだからだじゅうにふれられたあとが残っている気がした。いいや、僕にはさいしょからからだなんかなくて、リボンだったみたいだ、と思った。リボン。あのオルゴールの旋律は指ー抽象的な〈指〉、そのイメージ、それから〈指〉は、かれの目に、かれの感覚に、かれの主観に、なった。しゅるしゅるとゆるやかに僕のリボンはほどかれて、かれをかたどっていたリボンだってほどけてしまって、もうかたちなんか思いだせないくらいにまざりあってしまったーそんなような感じがした。ふしぎなこと。〈ほどかれる〉ということを、そこになにも残らないことを、僕はおそれていたような気がするのに。

ちかい距離をたもつためにからだを重ねることはなんて儚いことだったんだろうとおもった。からだという、目でさえ指でさえふれられてしまえるもの、よこたわる境界をなぞってゆくことにいったいなんの意味があったのかと。だって滑稽だ。ふれあうことは、隔たれているというどうしようもない事実を確認しあっているだけ。

いまだ感覚に残留するぞくぞくとしたあまいあとあじをどうしたらいいかわからないまま、僕はかれのことばをまっていた。

「〈観た〉ーーというより、ずっと体験的だったけれど」

 そこでかれはすこし息をつく。なにをいうべきか迷っているのとはちがう。かれのせりふは舞台めいていて、その間合いさえ、計算尽くだ。

「あれが、きみの記憶だね」

 憐れみはなかった。いたましさも。ただ事実を、なぞるように口に出すだけ。

 それが心地好いんだ。

 それがきらいなんだ。

 あんたの、そういうところが。

 もうずっと矛盾したことをもとめつづけてる。あんたの、観測者みたいな澄ました顔をゆがませることが、傷をつけられることができるのだとしたら。

 だけど、そうじゃないからあんたなんだ。

「どうやってひとりで生きてきたの」、

「どうやって、って」、

「あのひとたちはここを出たんだろう?」、

「…うん。うん」、

「きみはそれから、ずっとひとりだった?」。

「うん。でも、ふたりだったよ」。

 ことばを抽き出す、かれの間合いは完璧だ。僕はときどきこわしたくなる。なにひとつ損なわれず、きっとかれの算段どおりの、会話のかたちを模倣したものを。いつだってなんの効力もないとおもわされるばっかりの、僕のことばによって、だけど反抗してみたい。

「ふたり?」

「うん――

憶えてないんだ。それからのことは。

つぎに目を開けたら、いちばんに見えたのは君の眼だった。

君の、その赤い眼」

 あれからなにをしていたかをほんとうに思いだせない。白い蔓の寝台に綯われて、ずっとここで、この場所で睡っていた気がするけれど、それがいったいどのくらいの時間なのかを僕は知れない。ほんのすこしのあいだだったのかもしれないし、もうずっと遠い遠いむかしのことだったのかもしれなかった。きみが見せてくれる貝やなんかの化石というものみたいに、ずっと睡っていたのかも。めざめはきみの瞳だった。きみの掌が僕の頬にふれていたのだけ、それだけがたしかだった。そう、もしかしたら、父さまも母さまも兄さまだって、〈外〉の世界のどこにももう見つけられないかもしれない。

「だけど、待っているの?」、

 どうしてわかるんだろう。

「いまも、ここで」。

 なにも、口にしてはいないのに。

 どうしてわかるんだろう。

 あんたにはわかってしまうんだろう。

 僕のかんがえていること、それまで汲み取って口にできるのだろう。

 憐れまないかわり、嗤いもしない。

 あんたのまなざしはなに一つ曇らない。

 赤いひとみは。よどまない。傷つかない。

 傷つけるくせに。

 この眼から泪なんか流れたら、それはやっぱり血の色をしているの?

「待ってるよ」。

 それは、跳ね除けるべき問いだったとわかっている。

 いつもなら、そう。だってこの関係図はさきにすすめてはいけないから。

 いつか終わりがくるという、ほとんど約束みたいな、どうしようもない約束みたいな予感が、僕らのあいだにはあったね。最初から、はじまりのときから。目を開けたときから、その赤い目をみたときから、ああ、あんたはいつか僕を手放すんだっておもってた。

 おなじことをきみもおもってたね。

 わかるよ。

 それくらいなら、僕にだって、わかるよ。

「待ってるよ、いまも、ここで」。

 だからせめて、せめてさ、とどめておくことで遠ざける算段だったろ。

 それが、諒解された幸福だっただろ。

 なのに、

 なのに、さ。

「安心した?」

 気がついたら唇が先にうごいていた。

「ねえ旬欄、だって、待っているほうが、そのほうが、きみには都合がいいんでしょう?」。

 どうしてこんなことを口に出してしまったのか僕だってわからない。

 それは不可侵の領域だったはず。

 きみが求めているものを僕はとうに知っている。知っている、ということだってひっくるめて、そのうえでなお箱庭のお人形でいようとする僕のあわれさや無垢を、見下すのじゃなくほんとうにうつくしいと思ってる。きみは、あんたは、そう。そういうひとだね。わかっているよ。ちゃんと。わかっている。ちゃんと、わかってきた。

 わかってきたのに。

「きみは?」

 なのに、

「君はどうなの、帝?」

 どうして、

「外へ出たいと思ったことはないの?

にせものでない空や、花や石を、

見たいと思ったことはないの?」

 そんなこといまさら聞くんだよ。

 あんただってわかっていたはずだ。

 ふれてはいけないって。

 きいてはいけないって。

 ほんとうを暴くことなんてだれものぞんではいないって。

「僕は――

だめだよ。

まだなにもわからないもの。

まだなにも、あのひとたちをあんなふうにしたことを、思い出せてもいないんだもの。

だめなんだ。

僕はなにもまだ僕のことをわからないのに」、

「だめって、誰が罰するの、きみを?」、

「それは――」、

「いいんだ。

もう、いいんだ、帝。

わからないことはわからないままでいいし知ることは義務じゃない。きみが何者であるかを知ることは権利だから、おなじように知らないでいる権利だってあるよ。

ねえ、きみは自由だ。

ほんとうはきっととても、きみはもう自由なんだよ」。

 赤いひとみ。

 血の色みたいだ。

 衝動がつきぬける。

 ねえ、

 どんなふうなの。

 その目にうつしてきた世界って。

 どんなふうに、世界は、みえるの。

「僕、僕――、

僕、も」

 

 つれていって。

 きみの語るどんなうつくしい場所もほんとうにはなくたって。

 

 これは僕のことばじゃない。否定したかった。とりかえしがつかないから。だけどもうそんな余裕なんてたぶんこのからだのどこにもなかったんだ。このこころのどこにも。

なかったんだ。最初から。目覚めて、最初にきみの赤い目がほほえんで、それからずっと願っていたことだ。約束めいた終末を感じながら、それでも。

 きみによって語られるから、だから世界はうつくしいように感じられるだけだと僕は知ってる。きみによって騙られるから、だから、まだみたことがないから、うつくしいのだと。きみにほんとうの名前があったとして、知りたくないとおもってた。僕にだけ呼ばせるためのうその名前ならそのほうがいいと思ってた。思っていたけれど、だけど、それでも、このひとと同じ夜や、同じ朝を、どこまでもつながっているのだという本物の空を、僕はみてみたい。みてみたいとだって思っていたんだ。

 もうずっと矛盾したことをもとめつづけてる。

「無茶なんかゆわないつもりだったのに。わがままをよそおったってこれだけはいわないっておもってたのに。

 あんたが僕のところへくるのは僕が箱庭のお人形だからだ。何も知らないこと、それにつとめること、それしかとりえのないこどもだからだ。

 あんたは僕を連れていけない。いけないくせに。いまさらどうしてそんなことをきいたの。こたえられないくせに。いままで、ここまで、きたのに。なんなんだよ、もう、いいんだ、って。なんなんだ。あんたはまたあんたのあざやかなものを、執着をなくして、そのつぎはいったいどうするの。いったいどこへいくの。…もう僕はいらないの」

こぼれていくことばたちや頬をよごすものをどうにもできない。いらだちににているのにどうしてそんなものが出てくるの。わけがわからない。

 わからないことばっかりでもううんざりだ。

 あんたのことだって僕はとうとうなんにも知らないままだ。

「だから、帝、お願いがあるんだ」

 否定してくれない。

 そんなことにまだいちいち傷ついていられるこころが残ってるということ、ばかみたいだ。

「おねがい?これからはひとりで生きて、って?」

「ちがうよ」

「いやだ。ちがわないよ。おまえさいあくだ」

「きいて、帝」。

 どうしてきみに呼ばれた名前、とくべつなもののような気がしてしまうんだろう。

 あやすみたいにやさしくってまるでこわれやすいものにふれるみたいな、そんな声をきいたことなんてなかった。それがなんだか必死なようにも思えて、いつだってあまやかに突き放すことばを従えた唇、それがこのひとのありかただったから。

 はっとしておもわず顔を上げると、かれのひとみがゆらぐことなく僕をうつしていた。

 いつだってまっすぐに射抜くひとみ。

 だけど、はじめて気がついた。

 きみの目、

 君の目はさ、

 そんなふうだったの。

 そんなふうにじぶんをわらうみたいにしていたの、

 いつも?

「きみの言うとおりだ。

きみが外を知ることで、お人形でなくなることで、きっと俺はきみを手放すよ。あざやかなものはなくなって、おもちゃに飽いた子どもみたいにかんたんに突き放すよ。それをひどいことだとさえ思えないままに。

だけど、君にだけにはそうじゃないんじゃないかって願ってもきたよ。ずっと。そう願っている、

今も。

そういう、奇跡がもしもそこにあったら」

「でも――でもしってるだろ。

しってるから期待なんかしないようにしてきたんだろ。

だってほんとうの奇跡は、」

「奇跡はおこらないからこそ奇跡だ」

 ふたりの声だった。完璧なユニゾン。ゆったりとわらったその目にやっぱり自嘲めいたものを読み取れて、僕はおどろいた。

 おそれているの?

 きみにもおそれるものは、あるの?

「そうやっておどろいたみたいな顔。ひどいな。

俺は傷をわからない。だれにも傷つけられることができない。だからとてもあざやかなものにうつるよ。傷だらけでなおピアノ線の綱渡りみたいな生き方、きみを、だからうつくしいと思う」

「しってるよ。そんなの」

「だから、お願いがあるんだ、帝」。

 君から望まれることなんて、いままでなにひとつなかった。

 口に出してちゃんとした形で望まれることなんて。

 唐突に、だけどあたりまえに、きいてあげてもいい、とおもった。

 たぶんそれはきみの我が儘だ。どうしようもない我が儘なんだ。だからだれにだって口に出さなかったし、だれだってきいてあげられなかった。

 きみだってまるで子どもみたいだ。

 そのくせいつもひとりぼっちで生きてるんだね。

 それをかなしいともさびしいとも思えずに。

 ずっとなにかがきみのこころにあざやかなものをとどめてくれるのを待ちながら。

「待ってくれないかな。

俺を、ほかの誰でもなく。

いつかきっと連れていくから、だから待ってほしい、ひとりじゃなく、こんどはいっしょに」。

「それは、約束なの?」

「約束は好かないよ。果たせるかどうかわからないものなんて儚いばっかりで意味がない。

でも、そうだね。

これは約束だ」

「これから約束をするのに、儚いばっかりで意味がないなんてきみはいうの」

「ごめん」

「否定するとこなんじゃないの、そこは」

「そうかも」

「仕方ないひと」

 笑う声がする、とおもった。

 そこに君と僕としかいないことをたしかめて、それからいまのは僕だったのだと気づくのにたっぷり数秒はかかったんじゃないのかとおもう。

 なんの駆け引きも打算もなくほんとうにただ息をするようにこぼれるようにわらうとゆうこと、だって僕は知らなかったから。

 生まれてきてはじめて世界をみたような気になった。

 それだってもうじゅうぶん奇跡みたいなことだね。

 きみが僕に約束をくれるのも、僕がわらうのだって、じゅうぶんそう呼んでいい。

 たしかなことなんてなにもない。

 でも、奇跡はおこるよ。

 そう信じさせてくれるものがあればそこに幸福はあるよ。

 ちいさな、奇跡みたいなことはたくさんあって、いつまでゆるされるかそればかりを考えていたけれどそれはゆるされるのではなくって乞い続ける願いのことだ、僕と、きみとが、願いつづける時間のことだ。

 たとえそれがかなわないかもしれなくたって願っているかぎりまもろうとするかぎり未来のなかにそれはあるんだ、いつまでも、ひとかけらでも。

 おそれながらでいい、こわがりながら、それでも無神経に祈り続けて、どうかいっしょに生きて、生きて、生きてほしい。

「旬欄、屈んで」

「どうして」

「いいから」

 かれの、赤いひとみをみる。そのなかにひそむ傍観者めいた醒めた光はたぶんどうしようもなくて、きみにだってどうしようもなくて、だからかわりに僕をうつして、僕のなみだをきみにわけてあげる。泣けないきみのために、このなみだは、ここにあるよ。

それから頬にふれる、光のヴェールをまとったみたいな銀の髪、縁どられた輪郭をなぞる、ここにたしかにいることをもういちど知る。

 儚いばっかりで意味がない。

 ふれることだってたぶんそう。

 象ることだってたぶんそう。

 境界をなぞること、ただそこに横たわるへだつものをたしかめること。

 だけど儚いばっかりの意味のなさだって、それだってふくめて、過去も未来もわたってゆこうとすること、それはたぶん理解しつくすよりきっと刹那的でだからうつくしいんだ。

 そのためにからだはここにあって、境界はあって、ふれることの意味がある。

 やすらなかものなんてほんとうはどこにもないしそういうふうに世界はできていて、それでも留めることをねがえるもののあることを幸福だって呼ぶなら、ほろぶ肉体やしりつくせないこころはきっとそのために必要だったんだ。

 きっと知り尽くせない、

 だけど願い続けるよ。

 それから僕はきみのひとみに祈りをひとつ落とすよ。

 どうかそこへ僕がうつされつづけますように、たとえ儚いばっかりで意味のない約束でも、たえず結びつづけられますように。

 くちづけを目蓋に、たったひとときでもいい、安らかでなくたってあざやかなものを、きみに。