彼の弾くクラヴサンはみごとだった。鍵を叩く仕草さえなぞるようにうつくしく、紡がれてゆく五線譜は詩の一篇を読み上げるようにすべらかで、そうしてどこか憂鬱だ。

 ゆたかでふかい黒色の、象嵌細工の施されたそれは最初から彼のためにしつらえられたようだった。僕よりずっと長身の彼に椅子はちょうどよい高さだったし、彼のゆったりと畝りをもつ髪の銀いろと、その側板のみがかれた鏡のような黒曜とは、互いに互いを引きたてあって絵画めいて僕の目へ映った。あんまり整えられていてかえって隙だらけな気がした。いまかれの背中へそっと近づけば、その血だってかんたんに見られるかもしれない。だけれど硬質にはりつめていながら無防備なその一個の宇宙のような(と言ったって僕の知るのは贋物の〈プラネタ〉だけだ)空間に立ち入ることさえできないで、振り向かせるのだってひどく躊躇われて、扉の隅で隠れるみたいに息をひそめているだけだった。

 旋律について、名前やなんか僕はなにひとつひらめくものがなかった。そればかりか五線譜が、意味を携えてこうして奏でられるものとさえついぞ識らなかったのだ。画かれた尾ひれのついた円いのや、アンモナイトに似たのなんかの、列びの見目良さから選びとっては「お気に入り」をみつけるか、あるいは競うかするもので、あの黄ばんだふるい紙きれを蒐集するのや交換するのに〈外〉の連中はきっとみんな熱をあげているのだろう、というふうにおもっていたのだから。それを口にしたときだってかれはそれを否定しなかった。

 そう、切手(ふるい文化――「手紙」につけるものだという)の図版を蒐めるように。そういう趣味のあることもかれから聞いたのだった。

〈音楽〉というものを僕はしらなかった。あのクラヴサンが楽器と呼ばれ、奏でるためのものだとおそわったことはあるけれど、僕にできたのはせいぜい、ひとつ音を跳ねさせるくらいだった。奏でるということばの意味も理解できなかったし、扱い方の分らないおもちゃなんかそれからすぐに飽いてしまった。

跳ねまわる音の群れが指先に従えられたなら、つまり〈音楽〉が、こんなふうにはだの上を擽っていくように身軽にころがって、ときにはなぞらえて、境界を透過しからだじゅうを流れてゆくものだったなんて、思いもしなかったのだ。音をつぎつぎに編みいれた一本のながいながいテグスが、その玉のかがやきをたえず変質させながら駆け抜けていくみたいに。眠っていた種をめばえさせ、蔓をのばし、凌辱しあるいはやさしく撫でながら、僕を内側からからめとっていくような――

 けれど、それはまあたらしい感覚の萌芽による顫えではなかった。

 名づけられた、と思ったのだ。

 やっと。

 ピースがぴったりと嵌る快い電撃。

 この箱庭が〈双児塔〉の(それだってでたらめな)27時の鐘でそっくりすがたを変えるとき、僕はいつも〈波〉にさらわれていた。ざわめきとでも言いかえればよいだろうか。かたちをもたず、予感、ただそうとしかいいあらわせない無音の奔流が、僕の内側をゆらめかせ、悉くなでていく。触れない解剖。そうやって僕という現象の構造を、そのテクストを、自身のなかへ織り込みうつしとり、盗んでゆくみたいに――

 それが、いま音となってようやく姿を見せたのだ、と思った。

「いったいここにある楽譜は、誰が書いたのだろうね」。

   発せられた声に、急に肺へ滑りこむ酸素が重くなった気がした。

   いったいかれは、いつから僕がいるのに気づいていただろう?

 呼吸のように滑らかにすすめられた演奏は、けれど呆気なく打ち切られた。あまりに唐突に、無遠慮に。その〈音楽〉の終わりかたがただしくないことなら僕にもわかった。振り向ききらずに、だけれど彼の目のはっとするくらい赤い、視線は僕の存在を認知してたしかに、肩越しにここへ流されている。

「五線紙はずいぶん草臥れているし、インクも消えかかってる」

 鼓動のはやさを知りもしないで、君の?、とかれはその古びた紙きれを差し出す。それを受け取るには歩いてゆかないといけない。彼の近くへだ。だからわざとそうしたんだろう。文句のひとつもいってやりたかったけれど、途中で何を云いたかったかわからなくなって、開きかけた口を噤んだ。

 まだ、からだのなかを薫っている。〈音楽〉の残り香が。かれのつけていたことのある、香水みたいに甘ったるく。

「僕のじゃない」

 それだけいうのにどれくらい、平静を装う必要があったか知れない。そのことがたまらなく不愉快だった。声が上擦っていることに、どうか気づいていないといい。

「じゃ君の、ご先祖さまが書いたのかな、これは」

「……しらない」

「このつづき、君は読める?」

 群青のインクのあとを彼はなぞる。けれどそれはひどく掠れていて、たとえ書かれたものが僕の読める文字であったとしても(読める文字なんてないのだからこの仮定ほど無意味なものはない)、いまそれをただしく認識するなんて到底出来そうになかった。虫喰いの穴が点々と連なって、天井へ翳してみれば、星の散らばったようだろう。

「……読めると思うの?これが」

 苛々するのは僕の、癇癪持ちのせいだけではけしてない。絶対に僕の応えられないのをわかっている。こんなときこのひとはいつも、莫迦にしたように目を細めて薄く笑んでいる。

 いまだって、そうだ。

「冗談だよ。ずいぶん古いものみたいだ。弾いてみたけど、耳触りがどうもふしぎだ」

「もうやめるの」

「つづきが読めないからね」

 かれにそういうつもりはなかったことは分っている。だけど責められているような気になって僕は楽譜をつきかえした。

「いらない」

「そうだ、」

 くしゃりと音を立て皴のはいった楽譜を咎めることなくうけとりながら、まえに、オルゴールのはなしをしたことがあったろう、と彼はつづける。

 あった……かもしれない。なかったかもしれない。僕が思い出せないのか、ほんとうは彼がそんなはなしを最初からしていなかったのかわからない。そういうことだってたぶん、平気でする。

 唐突に、ばかみたいだ、と思った。

 この箱庭の〈外〉があるかさえ、僕の目はなにひとつたしかめてはいない。たとえば、 ここはほんとうは世界の果てかもしれない。亡んでしまったあとのたったひとつ遺された寂しい場所で、かれは嘘をつき続けているだけかもしれない。何も知らない僕とのあいだにだけ故郷を再構築して。僕へそっくり信じさせてしまって、かつての世界のすがたへもういちど触れようとして。かわすことばのうえに投影した、その残像に縋って。そうだとすればどんなにいいだろう。彼には帰る場所なんかなくて、僕のほかにこのひとの幻想を共有してあげられるひとがいなかったなら。

 ばかみたいだ。

 そんな空想こそ。

 わかっていた。

 そんなことを、のぞんでいるのではない。

「ここで見つかったんだ。この機構、たぶんオルゴールだと思うんだけど」

 スツールへ腰掛けたまま彼は低い円テーブルへ手をのばす。

 僕へ差し出された掌には、ちいさな透明の筐が載っていた。真鍮の柱と鍍金された縁取りとをもち、曇りなくみがかれた板硝子にかこわれたそのなかに、ほそい金の糸めいた櫛歯や筒などのいっしょになった機構がひっそりと納まっている。硝子の蓋にはなにかの記号が彫られていて、そこだけが半透明だ。文字かもしれないけれど、僕には読めない。

「それ、なに」

「ううん」

 彼は少し考え、それからことばをえらびとる。

「〈保存された音楽〉。書かれずに、別の手法で」

かろやかで、けして厳かにいったのではなかった。とくん、と、それなのにしずかにひとつ胸が愽ちはねた気がした。

〈保存された音楽〉。

 僕はそのことばに言い知れない陶酔をおぼえていた。たとえば――また、たとえばだ――かれのなかに、そのように僕が保存されていくのだとしたら。いや、こんどばかりはそれはただの空想ではない。事実、僕はいまも彼に視られ、記憶のなかへ僕のかけらを残している!彼が僕をおもいだすとき、僕のせりふや挙措はふたたびつづられ、織られ、奏でられる。「僕」は演奏される。〈音楽〉のように、彼の器官で。

 なんだかそれはとても心地好かった。からだを指先でなぞらえられるときの、あの感覚とそっくりだ。走査し、境界をざわめかせて、いまクラヴサンを弾いたその指が、僕をふちどってゆくときの。いつだって輪郭のない、僕にさえなりそこなっている僕をひととききちんと連ねて、僕のかたちへみちびいてゆくときの。

「……それを聴くことはできないの」

「残念ながら。薇がなくってね」

 彼はことさら残念ではないような様子でちょっと肩を竦めてみせた。

「薇が必要なの」

「ふつうは付属しているはずだけど――」

 そういいながら、彼はもういちど筐をくるくると眺め調べてゆく。その所作さえ流れるようでぜんぜん隙がない。彼の存在自体も〈音楽〉だ。動作の、その軌跡が旋律だ。シンプルでなにも装飾されていない、だからこそあらゆる意味を含ませ、翻弄する。その手が筐の角度を変えるたび、硝子板に与えられる天井から吊(さ)がった四角燈(キューブランプ)の光がなめらかにうごく生き物のようだと思って――

 とつぜん、蓋へ刻まれた記号が目に飛び込み、意味をもって作用した。

 正確には、その記号のなにを読み取れたわけでもない。それは文字ではなく、また象徴でもなく、ただそこへ突如としてあらわれてきた「意味」だった。ことばでかたられない「意味」のひとにらみを受けて、僕は手をのばしていた。

 それは僕の意思ではない。

薇は「ここ」にある、

 と、僕の唇がもはや僕のものではないことばで語った。

「見つけたの、どこに……」

 彼のことばをうわのそらで聞いた。

 硝子の小さな筐に手が触れたとき、

 どうっ、と風が――からだじゅうを透明なざわめきがなだれ込んだ、気がした。

 白紙の〈音楽〉。

 

 

 

 

 

 

 

 すこし手荒なやりかただったかもしれない、

 と〈装置〉は思った。

 「思った」かどうか――定かではない。〈装置〉に明確な、ひととおなじ体系をもつ意思があるとは断定できない。ただひとがその主観としてもぐりこんだとしたならきっとそのように感じられる信号が、いま内部で展開されていたのだった。

 〈装置〉は、だけれど少々強引だとはいえじぶんの役目をようやく果たせるならそれで結構、とのんびりしていた。なにしろ何百年も、へたをしたなら何千年もほうっておかれていたのだから、こんな機会をつかまないわけにはいかないだろう。だからちょっと子どものほうへはたらきかけて、強制的にじぶんを使わせることにしたのだ。

 〈装置〉はそれから、はじめての仕事にとりかかった。

 〈装置〉は、この箱庭のたとえばゲームの世界でいうアイテムのひとつだ。そのうち彼(というべきか)には、たとえばキャラクタの劃されたエピソードを開放するのに役立つアイテム、ざっくりと言えばそれと似たような役割があたえられている。ただ、それが使用者が特定のキャラクタの記憶を得るのとは反対に、使用者のほうが相手へ自身の記憶を明け渡すという点で大きく異なっているけれど。相手に、自分をみられたい、ゆだねたいという欲求、それらをみたすために、あるいはカウンセリングのためにデザインされたもの。だから特定の誰かの記憶が最初から〈装置〉の中におりたたまれて用意されているわけではない。まず白紙の旋律を浸透させ、それから記憶をさぐり、とらえ、旋律のなかにからめとって〈音楽〉のかたちにラッピングして弾きだす――それが贈られた相手の耳殻へとどいたとき、記憶もまたそのひとのなかへなだれ込んでゆく。

 うつくしい旋律、〈音楽〉を介した記憶の共有、感情の共振。からだをこえた交感。

 それがコンセプトだった。

 だからまず、いま〈装置〉はこどもの内部へ音のない旋律となって潜っている。

 浸入ってさいしょに、〈装置〉はこれはちょっとめんどうだ、とため息を吐くことになった。

 なにしろ順番にきちんと並べられていない。〈装置〉が「視た」ものを視覚的に表現するなら、だだっぴろい空間に幾千のビーズがばら撒かれた、そういう光景だ。恍惚とするほど途方もない無秩序。

 ふつう、記憶は機序立って連なっている。肉体のなかの地層めいて順番に堆積されていて、〈装置〉はそれを新しいほうからたどり、潜りながら、人物を象るエピソード群を摘んでは白紙の旋律へサルベージして紡ぎとっていく。綺麗なビーズだけより分けて糸へ通すように。あとはそのかがやきの情報を音楽の作法で織りなおしてゆけばよいだけで、最初からすでに音符の進行は示されているのだ。だけれど、この子どもの最初の地層、まだあたらしい領域では、記憶は配列をうしなっているようだった。

 ただ、始めてみればそれほど苦労はしなかった。ばら撒かれた記憶のビーズたちにはちゃんと順序コードがそなわっていたからだ。つまりこの子どもの場合、記憶のラヴェルを読み込む機構の調子が悪く、うまく引き出したり列べられないだけらしかった。

 どうしたらこんなふうに毀れるだろう。自然にそうなるものだろうか。ちらばった記憶を読み取ってみると、記録されているのはすべてあの青年とのやり取りだけだ。退屈で、他愛もない会話。それらをわざわざこんなふうに撹拌する意味があるだろうか。

けれど、同時にそれらの記憶のビーズにはどれもかならずするどく光る異質なかがやき、傷をつける刃がひそめられている気配があった。うつくしく加工の施された、その一つのカット面だけが、ぎらりと別次元の光を放っている、そんな気配。すべての記憶のなかに、この子どもをうちからみはっている機構のひえびえとした眼がある。それはどんな眇たる対話、どんな瑣細なまじわりにも適応され、無意識のうちにこの子を摩耗させ蚕食していく。

 〈装置〉はそれを知りたくなった。

 その正体を視たくなった。

 そうしてより下層へ、とひとつ潜ったそのとき、景色ががらりとかわった。

 あきらかにそこから「地層」の様相がちがっていたのだった。

 きちんと、列べられている。

 苦痛の連鎖が。

 うたうように記憶のビーズはおびえの信号を発している。

 

 黒くて長い髪。

 あかい唇。

 ふくらんだ胸。

 恐怖。

 やわらかい肌。

 いやだ

 白い睫毛。

 憧憬。

 羨望。

 こわい

 紫斑。

 たすけて

 爪。

 ごめんなさい

 

 〈装置〉は歓喜し顫えあがった。

 探り当てた感情の奔流に、その烈しさに。

 こんな譴責に満ちた感情が誰にも告解されずに、生きたままこのほそしろいからだにひそんでいることに感嘆したのだった。

 それを剖き、展開し、あの青年に受け渡すことで、どんなにこの子は満たされ救われることだろうと〈装置〉は己の果たせる役目に恍惚とした。

 ざっと視ただけでも、なんと「共有」のコンセプトに最適化された、心地好い記憶だろう!

 このエピソード群をなるべく思い出さないでいるために、この子どもはより浅い領域で記憶の撹拌という手法によってじぶんの意識に混乱を生んでいたのだ、と思った。すべて無意識によって計算ずくの、制御システム。警告のためにはりめぐらされたピアノ線。それで意識の部分に傷がつこうが、からだを統制できないほどかんぜんにこわれてしまうよりずっとましだ、という、きわめて合理的な判断。その図太さにはまったく頭が(そんなものはないが)あがらない。まるで無意識のほうが意思をもっているようでさえある。なんというか、そう、この子どもはおにんぎょうだ。自分のしらない生への執着、原初の意思の。

 その記憶たちを陶然としながら、ていねいにけれどほとんど情欲のようにそっくり自身の旋律へからめとり、ひととおり貪ってしまうと、〈装置〉はそれだけでは足りなくなった。

 最初にこの層へ浸入ったとき、あの浅い領域ですべての記憶にしのばせられていた(ように感じた)つめたい機構の視線は、このおびえと苦痛で織られたエピソード群への接続を規制するためのものだと思っていたのだけれど、からめとってすっかり自分のものにしたあと、どうやらそうではないということに気付いたからだ。

 これらの苦痛の記憶すら、その「目」の寒々とした視界のなかにある。

 それはいったいなんだろう?

 ……〈装置〉は昂揚した。

 かならずこの子どものなかにそれが格納されていることがわかっていたからだ。

 だって、これだけ織りとってなお、もっと下へと層はつづいているのだから。

 〈装置〉は、それから旋律をうんとクレシェンドした。

 もっと下へ!

 もっと先へ!

 もっと深くへ!

 

 

 

 

 

 

 

 

「帝?」

 呼びかけると、そのこどもははっと目をみひらいた。それから、きょとん、としたおさない顔、そこへ割り込むみたいに怯えのようなものが織り込まれている。

 筐へふれたほんの一瞬。たった一瞬、ぴくり、と指が跳ねただけ。

 けれどそのまたたきひとつの間に、はだはいっそう死体めき青ざめたように見えた。

 そこに何かまったくべつのシーンが横たわっていたみたいに。

「どうしたの。薇がある、って言っていたけど」

「……僕が、そんなことをいった?」

「おぼえていない?」

「いや――でも、それは、たぶん……僕じゃない」

 どういうこと、と尋ねると、子どもは「わからない」と頭を振った。いやいやをするみたいに。この子はそうやって記憶の中で迷子になって、ひらひらと飛んでいってしまうことが少なくなかった。戻ってきたとき、それはからだといくつかの記憶の微細片を共有する他のだれかだ。

 それが帝というありかた、それで「ひとり」だ。

 けれど今日のはどうもすこし違うみたいだった。「僕じゃない」、たしかにそういったのだ。この子はいま、それまでのやりとりだってきちんと憶えている。ただ一瞬だけが抜け落ちているのだ。そこだけ時間が途絶したように。

「これは」

「いらない」

 そういって帝は受け取ろうとしていた筐から手をひいた。躊躇うみたいだった。なにに躊躇っているのか、じぶんの無意識がなにを察知しているのかわからないままに。

 そう、ほんとうに「わからない」というふうな表情で。

 どうして星は落っこちてこないの、とたずねるこどものあどけない表情で。

 青ざめたはだの白さとまぐわらない表情で。

 筐を持っていないほうの掌で頬に触れると、それはほとんど氷でできていた。

 ……ように思えた。

「部屋に戻ろうか。やすんだ方がいいかもしれない」

「きみ、熱があるの。手が、あつい」

 帝が頬を包む掌に手をかさねてそういうので、思わずくつくつと笑ってしまった。

 予期しなかったこたえ。予測不能なことばに。

「何がおかしいの」

「わからない?君のほうがずっとつめたいんだ」

 それから手を取って、こちらへ、と促す。

 指先だって冷えていて最初から体温なんか持っていない白磁のようだ。

 なめらかでやわい、生きたつくりもの。

 紅茶を淹れてあげよう。

 黒砂糖と生姜と、それから蜜をたっぷり。

 うたうようにそう告げる背中に、手をひかれたこどもはだまってついてくる。

 

 

 

 

 

 

 ……。

 先へ潜ろうとして、〈装置〉は自身が崩壊をはじめていることに気が付いた。

 気付いて、呆然とした。

 とつぜん、無音につつまれていたからだ。

 自分の旋律を完全にみうしなっているからだ。

 そうして全貌のみえない、まったく異質の広大な湫がそこへよこたわっていることをようやく知ったからだ。

 踏み入ってしまったあとで、ここから先に扱えない領域があることに気が付き、

〈装置〉は戦慄した。

 何も読み取れなかった。

 無音。

 自分の旋律がとらえられている。

〈装置〉は顫えあがった。

 ああ――ちがった。まちがっていたのだ、と〈装置〉はその気配だけでさとった。その領域は自身を劃そうとしながら、だが見られたがっていた。刃のような光のするどさ、攻撃性をもつプリズムで記憶のビーズに自身の危険さを書きつけておきながら、同時におなじ光によってその存在をぎらりとしめしつづけていたのだった。この子どもの無意識が触れないようにしていた怪物に、〈装置〉はまともに目をあわせてしまったのだ。

いま、それは旋律をつかまえ、つたって外へあらわれようとしていた。

 うっかりその領域へ浸入ってしまった〈装置〉を、悪戯を仕掛けた我が子を穏和に咎めるように、だけれど比類なき冷血さで、機能のすべてを奪いつくそうとしていた。

 〈装置〉は死にものぐるいで走査をとりやめ、旋律へのエンベッドを強制終了した。

 逃げ帰るように手をひいた。

 あの領域がこの子どもの意識の浅瀬まで這い上がってしまったなら、〈装置〉もまた破壊に巻き込まれ、にどとこの子どもの外へは出られなかったにちがいない。五官の檻に閉じ込められて、コントロール不能なまま、記憶を読んだり吐き出したりしながら、ぐちゃぐちゃの音のスペクタクルをひとりでつくり続ける――

 〈装置〉は嘆息した。

 おそろしい空想に。

 その領域から逃げ出すことができた安堵に。

 それから、驚愕した。

 じぶんがまだ毀れ続けているということに、気付いて。

 じわじわと時間をかけ、けれど確実に、機序がうしなわれていく。コードが分解されていく。怪物のような領域、直接的なそれではなく、その残り香のようなもの、幻影に。真綿で首を絞められるようにゆっくりと。

 やがてぴしり、ぴしりと自分を象る輪郭――「筐」に罅の入っていく音を聞き、光の射したのを〈装置〉が視たとき、そこにもう主観は残ってはいなかった。

 離散していくモジュール。

 内側からかえられていく旋律。

 その転調をのがれるために、〈音楽〉は外へ外へとあふれようとしていた。きわめて機械的に、もはや意思を放棄した筐からそれはぽろぽろと音となってこぼれだしていった。

 やがて、オルゴールの音が響きはじめる。

 天蓋の寝台のその傍で。