博愛の目のように、あなたは誰をもみつめない。

 そう述べた人のなまえをなんていったっけ。

 それだって忘れてしまった。

 だからきっとその通りなんだろう。

 

 優しいからです。

 静的だからです。

 告げられる理由をごく平坦におしなべればそういうものだった。つまり時間それ自体は諍いもなく、けれど刺激と呼べるものもなく緩慢に過ぎてゆき、ただ彼女だったり彼だったり、の主観において、はじまりからさよならへこぎつけるほどたしかになにかが変わっていったのだという痕跡だけが、別れによってのこされるすべてだった。

 あなたはとてもおだやかだ。

 わたしはあなたに適わない。

 だから、罪はあなたに宿らない。

 そのようにかつての彼女たち(あるいは彼ら)は言っていたし、これからもきっとそうだろう。

 来る者を拒まないだけ去る者だって追わなかった。繋がることを求められれば手を伸ばしたし、綻ぶことを望まれれば甘受した。だれとでも平等に体温を共有した。はじまりもおわりもあちらからだから、狡いとおもわせる隙もなかった。要するに質量がないみたいな生き方、それくらいのすべらかさで、きっとそんな姿勢だから、邂逅も解消も傷にはなれない。

 いつだって笑って見送るだけだ。

「ありがとう。きっと、君はしあわせになれるよ」

 

 

 

「ただいま」

「世界に、どれくらいあるの?きみがそういって帰る場所はさ」

 青白い咽喉から発せられる声はソプラノのようなアルトのような、どっちつかずだ。少女と少年のあわい。

 そのどちらにさえまだなれない。たぶんこれからも。

「怒ってるの?」

「僕がどうして怒るの」

 おかしなこと言う、とほとんど笑うように声音だけは弾んでいるのだけれど、あどけなさの残る顔の上に浮かんだ不機嫌の色を、おそらく自分でも気づいてはいない。いつだってちぐはぐだ。存在しているといえるほどの確からしさに欠けた、自律未満、パッチワークの現象。「僕が、どうして怒るの?」舞台のうえで、こんどはせりふを読み上げるようにそのこどもはひらひらと着物を翻して廻る。

 円形の劇場を模したこの場所は〈中庭〉の湿原のただなかに気まぐれにあらわれる。

 外から見たときそれは天幕の姿をしていて、装飾された三角の屋根は丁寧で大胆なイルミネーションを纏っている。

 サーカスのようでもあるし、メリーゴーラウンドのようでもある、とおもう。どこかチープでおもちゃみたいだ。遊園地なんかの、夢を見せるための場所がもつ突き放すようなやすっぽさ。

 入り口をくぐりぬけ、天幕の内部へ一歩足を踏み入れたとき、見上げたとき、誰だって(残念ながら来客などあったためしはないのだけれど)感嘆を漏らすだろう。

 暗い湿原から入り口をくぐりぬけ、淡い光のなかに視界のひらけたとき、目に飛び込む景色の空間領域的な魔法――外から見たすがたで予想される何倍もの高さから、幾多の柱によって支えられた観客席にてっぺんから見下ろされることになる、という魔法に。

 彫刻の施された柱は舞台を取り囲んで天井まで伸びていて、その穹窿はどうやったってあの天幕に納まらないと一目でわかってしまう。そのことが、わざと空間規矩の設定を変えてあるらしい、とか、可触映像の一種のギミックだと気付かせるのだけれど、視界へ映ったその景色の稠密さ、濃厚さは、同時に物理的な「現実」にじっさいに存在することを疑わせない切迫感を生み出していた。

 夢を見ているとき、脳が夢を見ているとたしかに知りながら、それでもそのなかでは自身が感覚器官をきちんと備えていて、あらゆるものを実像ととらえてしまわずにいられないように。

 宝石をばら撒いた夜天のプラネタ、青い絨緞、金のなめらかなタッセルでかざられた緞帳の、滑りをもつびろうどの光沢、そのどれもが舞台の真上から降るシャンデリアの光だけでひっそりと照らされている。

 天井から吊るされた天体のオブジェはこどもが描くようなかんたんな、記号化された星のかたちだ。緞帳は円形の劇場のどこからも「舞台の奥にかかった緞帳のように」見える透過映像のひとつにすぎないし(そもそも円形劇場に緞帳は無意味でただの舞台らしさの演出だ)、なにより虚構じみているのは、〈観客たち〉の姿だった。

 それらは〈観客たち〉とまとめて呼ぶほかにない。彼らには体格にも性別にも寸分の差もなかった。顔はもちろん皮膚さえあつらえられてはいない。黒い影法師が、そのまま着席したり、立ち上がったり、移動したりする。ぼやけたピクトグラム。簡略化された「ひとびと」という、集合体のアイコン。

 人間の下位互換ともいえる彼らはことばをもたないくせざわめきを纏って蠢き、明確な指の形さえもたないくせ舞台の上へ拍手を送る。具体性を一つも持たないすがたが、なによりこの場所のすべてが虚構であることをつねに暴いていた。

 テーマパークのお城と同じだ。荘厳な美は、偽物であること、やすっぽい模型で崩されて富のにおいを失い、夢に化けることができる。

 だけどここはきっと悪夢に近い。偽物の映像でえがかれた箱庭の、その中へ用意された、やはりにせものだ。ここは、入れ子式の虚構にすぎない。幻覚であることを知らせ続けながら、途方もない現実感をつくりあげている。

 だれがこんなサーヴィスを考え出して、いったいだれに与えるつもりだったのだろう?

というより、ここまでしておきながら同時に誰を招くことも想定されていないというのは、どういうわけだろう。

 この箱庭に、ほかに誰もいないというのはーー

「どうして」

 思考と、別の声とがオーバーラップする。

 舞台の上からそれは降ってきた。

「どうして僕の場所がわかったの」

 言ってもいないのに、と御影が口をひらく。

 どこへ行っていたの、ではなくて、そんなことを聞いて意味のないことをちゃんとわかっている敏さがむしばんだ瞳が見おろす。その表情とことばとはまるで関連性がない。シークエンスを毀された機械みたいに、棘のある声調に笑みがはりついている。

「この場所のある日はいつもここにいるからね」

 答えると、御影は笑みを浮かべたまま、ふん、と鼻を鳴らした。

「それでわざわざ来たわけ」

「そう。わざわざね」

 わざわざ、というところに、この子どもの願いやほとんど祈りと呼べるものがぜんぶ込められていることを知っている。

 ちょっとためしてみたつもりなのだろう。この文脈を読めるかと。足りない言葉のなかにたくさんのコードが仕込まれている。うわすべりの会話はプログラムの文字列に過ぎず、ほんとうのことばはそのテクストを読み解いてはじめて展開される。

 この子はいま僅かに幸福だということ。

それを確かめたがっているということ。

 繰り返して肯定してみせることはそれをたしかに読み取ったという意味の、それも暗号だ。

「へえ。わかんないな。こんなところにお前、用なんかあるの」

 ほんとうは何を言ってほしいか、わかっている。何を言ってほしくないのかも。

 どちらも、おなじだ。おなじ言葉を望んで、きらっている。綱渡りをしたがっているわけではなく、ただ安定していないだけだ。いつも揺らめいている。揺らめくことで均衡を保っていられる。

「勘違いしてるみたいだけど、べつに俺には帰る場所なんかないよ」

「ねえ、いまの、答えになってないよ」

「これは君の最初の質問のこたえ」

「……ふうん」

 御影は、もうじぶんが最初に何を言ったか覚えていないらしかった。

 思い出そうとするそぶりも見せないで、ただ退屈そうにそっぽを向くだけだ。まるで過去の――何秒かまえの自分でさえ、憶えていなければ自分でなんかない、というように。パッチワークの〈現象〉、というのはそういうことだ。テグスに通されたひとつづきのビーズ、その累積を記憶と呼ぶなら、この子どもの意識には垂直につらぬく、順序立てる、そのための〈糸〉が正常に動作していない。たとえそのビーズにただしい順番を示す数字が刻まれていたのだとしても、それを読み取る機能がこわれている。内的心象はランダムにいれかわり、組みかわり、立方体のおもちゃのようにつねに別の意匠を見せる。

「単純な疑問なんだけど、そんなになんでも忘れてしまうのに俺のことはどうして覚えてるの?」

「"勘違いをしてるみたいだけど"」

 さっきのをまねて、演じてみせたらしい。台詞めいた声色を耳にして、ざわめいていた〈観客たち〉がめいめい着席しはじめていた。さいごの〈観客たち〉が席に着いたとき、カン、と音がして、舞台上の子どもに燈が当てられた。

 “第一幕”。

 そう声に出してみたくなる。

「きっと、わすれるんじゃない。

 順番がかわったり、ときどき一部を、ときどきほとんどを、〈引き出せなくなる〉だけ。そのどれにも、しつこくお前は居座ってるってこと、それだけ。だからお前を、おぼえてるんじゃない。引き出す記憶のどれもにお前がいるせいで、お前を判別できるだけ」

 舞台のうえでだけ、声が反響していた。

「光栄だな」

「ううん、僕にとってはちっとも」

 そこで、ようやく表情と言葉とが噛みあう。

 ほんとうに子供らしい、不貞腐れた顔。死体のような青じろい膚と濡れた赤い唇を除いては。

「それじゃ、」

 舞台の下から俺は続ける。

「君のなかにはすべて記録されていて、保存されているってことだね。今の〈君〉がそれを読み取れなくても」

 それは、読めないスクリプトと同義だ。解読できない古文書。そこにはうしなわれた意味がたしかに存在していて、ほどいて組み上げることではじめて全体像が示される。

「さあ。しらないよ。だっていまの僕はすこしのことしか思い出せない」

 たとえば、映画のデータがあるとする。

 一部が正常に再生されても、そこだけでは全篇を想像しえない。毀れているのはドライバのほうだから、毎回不調をきたすシーンがちがう。

 それがこの子の内面で起こっていることだ。ただ延々と異なる場面を再生し続ける一瞬一瞬の光の明滅。同じ人間でも、時によって備えている記憶の量も内容も異なっている。

「いつからいまの君だった?」

「……話をしてた。お前と、ここで。"この僕"と連続してる記憶の最初は」

 反響しているのは御影の声だけだった。まるでひとり舞台のように。

「『世界に、どれくらいあるの?君がそういって帰る場所はさ』」

「なに、それ」

「そう言ったんだよ、君が。さっき」

「『世界に、どれくらい……』」

 繰り返そうとして、御影は数度瞬きをした。聞き覚えがある、という顔だった。ただしくは「言い覚え」だろうか。

「まって。おぼえているかもしれない」そう呟いてから、こんどは否定する。「ちがう。でも、ちがう。それはずっと前のこと」

「思い出せた?」

「うん、でもそれはさっきじゃない。ずっとむかしだ。そうだろ」

「残念ながら」

 肩を竦めると、子どもは舞台の上から視線でできたナイフを寄越した。このはなしはもういいだろ、とぶっきらぼうに言って(それさえそこにいるだけで架空の「誰か」に向けた演技のように見える)、続ける。

「それで、お前は平気なの」

「何が?」

「帰る場所がないって言っただろ」

「ああ、うん――」

“博愛の目ように、あなたは誰をもみつめない”。

 誰のことばだったか、おぼえていない。

 だけどそれこそが的確な表現だといつも思っているし、顔も思い出せない誰かさんを尊敬してもいる。

 すこし逡巡して、はじきだしたのは同じ答えだった。

「――そうだね」。

 

 

 

 

“それは、誰もあなたに傷をつけられないのとおなじではないの?”。

 それも誰かさんの言葉だ。

 あの言葉にそんな続きがあったことを、今になって思い出していた。

 きっと生まれるとき痛覚を忘れてきたのだ、と思う。フィジカルでない、精神的な、内的な、傷を感じる器官をそっくり。硝子板一枚隔てたむこうで世界の全てが執り行われているようだった。だからといって、だからこそ、それがなんの痛手でもない。

だれにも傷つけられない世界は甘ったるく、砂糖菓子のようだ。

 傷のほうが鮮烈だろう。生きていくうえで、いくら不快と苦悩を伴ってもそれは必要だから用意されているのだろう、とときどき思う。

 ”人間と哲学的死体の違いは”。

 ”本物の人間と、メルツェル・ドールの、信号によってえがかれた感情との境界は”。

 それはいま世界じゅうで展開されている、いくら語られてもけして語り尽くされない主題テーゼ だった。かつてフィクションの中でさんざん審議され、手垢がついた「ベタな」テーマをそれでも繰り返しているのはなんのことはない、それがいまやフィクションではなくなってしまったからだ。

 

 

 

 

 

 

CHildrenこどもたちの泪〉。  

 5年前、世界を震撼させた(これはタブロイドの常套句だ)テロ事件はそう呼ばれている。

 solの〈管理者〉リストに名を連ねる10名の天体管理職員――Solの植民先の天体の管理者、つまり派遣独裁者だが――が、同日同時刻にまったく同じ手法で殺害された。犯行はすべて別の個体のCHild(少女型、あるいは少年型のメルツェル・ドール)によるもので、殺害後にメモリは消去されていた。それはすなわちドールたちが何者かの指示で動いていたことを示していた。ただしその消去は(故意とわかるほど)完璧ではなく、一時的な履歴の削除にすぎなかった。記憶はストレージに保存されたままだったのだ。まるで、わたしを見つけてくれ、と言っているかのように。

 記憶がサルベージされたのち、「彼ら」の証言は一人の人間の男に行き着いた。

「パパ」。

 と、CHildたちはそういった。

「パパ」は、所有者に放棄されたChildを施設の中で「教育」していた。ひとの身体上の 弱点だとか、殺めかたを。もちろんメルツェル・ドールの思考スクリプトには〈人間の安全に係る制限〉が織り込まれてあるし、その部分で高い信頼を得たからこそ普及していたのだが、「パパ」はドールの〈制限〉テキストを書き換えていたらしかった。

 CHildたちは〈処分〉された。

 Solによって、人々の安全のために。

「パパ」「助けて」「パパ」「痛い」「パパ」「どうしてこのひとたちはおこってるの」「パパ」「どうして、ぼくたちは、しんじゃうの」。

 人々の安心のため、〈処分〉の映像はあらゆるニュース・ガジェットを駆け回った。

 それまで、メルツェル・ドールの感情は疑似感情とされ、信号として扱われていた。システム上の反応。「本物」ではない。向けられる言葉も笑顔も、組み込まれたものと知ったうえでその緻密さと高度な技術を楽しむ「嗜好品」。何千と用意されたパーツから容姿は自在にカスタマイズでき、届いたドールの頭部ポートに、性格(キャラクタ)設定を施した専用のカードを挿し込んで起動する。性格はいつでも書き換えられ、カードから編集用の画面を呼び出してスライダで調節可能だ。グラフィックツールのカラーサークルのように(より複雑な設定と安定した動作を両立したければ、メモリを増設する必要があるが)。誰もが「神のように」「好きなように」造り出せる、観賞用の動く着せ替え人形。

 映像クリップは世界じゅうに衝撃を与えた。これほどにエモーショナルなドールの姿を、人々は見たことがなかった。当たり前だ。メルツェル・ドールは「意図的に破壊されないかぎり」停止することはない。カスタマイズされたうつくしい容姿を保つため、危険回避システムを備えたボディを自損することもまずない。ふつうに生活していたなら、人々にとって彼らはにこやかに頬笑む目の保養のためのお人形であり、わざわざ破壊する必要もないのだ。

 ふつうに生活していたのなら。

 事件後、いくつものメルツェル・ドールの虐待と悪用の事例に光が当てられるようになると、〈尊厳派〉と名乗る団体がいくつもたちあがった。ドールにも「人権」を、と掲げられたメッセージを過度な主張とする声の方が多かったが、一笑に付すこともできず端的に言えば人々は困惑していた。ほんとうにドールが感情を持つのか。まるで人間のようにリアルにふるまうよう設定されただけで、表情も仕草もプログラムの中で交感される信号のアウトプットではないのか。 

 いや、それは自分も同じなのではないか?

 「わたし」は、「わたし」が観測することによってはじめて「わたし」が感じ取る、「わたし」の中でだけ交感される――それは現象でさえなく、「わたし」のなかだけで完結してしまうただの幻覚ではないのか?

 殺害された天体管理職員がみなドールを使い捨ての兵士として使用していたという情報が加わると、メルツェル・ドールの〈尊厳〉に関する議論は一気に加熱した。

 そんな中、「パパ」の処刑は行われた。

 彼は息絶えるまで、ずっと話し続けた。

 最初は、あまりに冷静な語り口で。じわじわとあふれて、くずれていくように。

「私はドールのプロトタイプ開発に関わっていたんです。主に感情の部分をです。勿論自分が作ったシステムですから、それを感情だとは思っていませんでしたよ。主に穏やかな感情以外をあらわす機会もなかったですから、折角作った悲しみだとか痛覚だとか、これは自損事故防止のためですけど、がまるで使われないっていうのも勿体ないなと思っていたんですけどね。

あれを見るまでは。

兵士として使われているらしい、という情報は得ていました。使っている、本人たちからね。それで現地へ呼ばれて、行ってみたんです。よせばよかった。

血は出ません。機械ですからね。なめらかな人工皮膚と肉とに穴が開いたら、あとは金属質の音が響くだけですよ。かんかんかんかんって。銃じゃ毀せないってわかってるから、相手ももっと固い棒とか、そういうのでへしゃげるまで殴るんだけれど、やわらかい人工の皮膚と肉の層がくずれたあとは、やっぱり金属の骨しか残っていないから、硬い音しかしない。

でもね、痛がるんですね。思いっきり顔をゆがめて、手を伸ばして何かをつかもうとしたり、他の人間の兵士を庇おうとしたりするんですよね。自損防止と人間の保護の間で葛藤している様も見られました。金属の音と、生身の表情。滑稽でした。ぞっとするほど、滑稽でした。

とんでもないものをつくってしまった、と思った。

純粋に、いちばん最初に、そう思った。

職員は笑っていました。これからは、人命を尊重した戦争ができるって。正直ぼくはドールが苦しんでいるからとかそういうことではなくて、こいつらあほだなって思ったんです。だってこんなものがいたら、ぼくたちはいつもいつもいつもいつも考えなくちゃいけなくなるんですよ。自分とは何か。ぼくはいつもいつもいつも考えなくちゃならなくなった。でも世の中を見てみると、案外そうでもなかった。みんなドールをお人形だと思ってる。自分をひとだと思ってる。自分とドールの間に明確な線引きがあるって信じてる。

ぼくはこたえが欲しかったんです。ドールを使って事件を起こすことでそのことが話題になってもっと議論が広まればいいなと思った。こたえなんて手に入らないってわかってたけどみんなで悩めば恐怖もちょっとはましになるかなっておもったんです。

チープだと笑ってください。そしてこたえをください。こたえはどこかにないといけないでしょう。

だってこれは、物語の中でもうじゅうぶん語られているテーマなんですから」

”本物の人間と、メルツェル・ドールの、信号によってえがかれた感情との境界は?”。

”人間と哲学的死体の違いは?”。

「おしえてください。ぼくがしんだら、「ぼく」のきおくとかってどこへいくんですか。

ぼくがみているせかいはどうなりますか。

なんか、ぼくがしんでも、せかいがあるって、ふしぎですよね」

 へらり、と笑って、頬をひとすじの泪がつたい、彼の頭は吹き飛んだ。

 

 

 

 

 

 

”人間と哲学的死体の違いは”。

”本物の人間と、メルツェル・ドールの、信号によってえがかれた感情との境界は”。

 だけれど、俺にとってそれはとりわけ関心のある議題でもなかった。自分の中に在る(のかもしれない)機微というものを、だけど認識できるのも主張できるのも本人以外にはなく、それはどうしたって外的には観測しえないからだ。我思うゆえに我在り、と<名無しの格言>ライブラリにつづられているように。「パパ」も自分で言っていたのに、と思うだけだった。とっくに答えなんか出ているのだから。

 けれどどちらかと言われれば、じぶんは後者に属しているのではないかとふと思うことがあった。

 そう、哲学的死体。

 感情のようなものを持っている、ひとのかたちをした、ひとの間を漂流する信号の現象。

 そうであったとして、そのイメージすら何も傷にはならない。

 ひとかけらの感傷もない。

 だからこそ、からだが憶えていた。

 たしかにこの裡に灯ったことのあるひとときの熱情を。

 たとえば花を――あれをばらを模した花と知ったのは咲いてしまってからだが、<中庭>でそれを育てていたときだ。

 その灌木に気付いたのは、<中庭>へ星の肋の種を採りに行ったのがきっかけだった。肋骨の一本のように湿原から突き出した水晶質の植物は、朝(のプラネタ)になれば光を漏らしながら割れては破片となって散らばり、あとにのこされる金平糖に良く似た種を帝はよく口にしていて、機嫌の回復に覿面だった。カンテラへ入れておけば暗い夜に読書をするのに最適な燈種になった。ほとんどここでいるときには日課のように<中庭>へ採りに行っていたのだけれど、湿原の中に、その灌木群はあったのだ。なんのことはないふつうの木。奇数羽状複葉をもち、ふかい緑を茂らせていて、いつも蕾をつけている――

 そう、いつも蕾をつけている。

 花の咲いたところを、見たことがなかった。

 何年も。

<永遠に分化しない蕾>。

 ほとんどそれからは執着といってよかった。開くことのない蕾を眺めつくし、ありとあらゆる想像をはたらかせもした。どんな花をつけるのだろうとずっと思い描きながら、その正体を突き止めたいわけではけしてなかった。いつか咲かせてみせようと思いながら、分化の可能性をたっぷりとはらんでそれらすべてを破壊している均衡、蕾のままのすがたをただひたすらに美しいと思った。

 そのとき、世界がどんなにあざやかだったか。色彩を変え、かがやきを変え、目まぐるしく映っていたか。

 けれど、

 ある朝、それはあっけなくひらいていた。

 八重咲きの、ずっしりとした真紅の花だった。花弁の一枚一枚、そのうえに細やかな粉砂糖をふりかけたような――じっさい、それは口に含むとねっとりと溶けて唾液とまじりあい、しばらく甘く揺蕩った。かたちだけは完全に<外>にあるばらと何もかわりはない。そうか、と声が漏れた。そうか、こういう花が咲くんだ、とつぶやいていた気がするが、そのときにはもう手に持っていた剪定鋏が、赤い赤い(アイシングがかかってほとんど白にちかいはずだけれど、今思い出すのはそんなイメージだ)、花を萼から切りおとしていた。じょきん。じょきん。刃の音だけ耳に残っている。そのときの感情をよく覚えてはいない。乾燥した、かさかさの、無味無色の。手に入れたものから色褪せて飽いてしまった。子どものようなやまい。泣きわめいて欲しがった玩具を放り出すみたいに、 結局手許にはなにものこらなかった。淡々と行われる儀式のように鋏はわずかな躊躇もなくなめらかに処刑をつづけ、足許に赤い(いや、白い)花の海が生まれていた。

 いくつか、まったくおなじ形の花がある――

 かさ、とそのとき、葉の擦れあう音が聞こえた。

 視線を移すと、そこにその子どもはいた。ひどく怯えた目をしている、と思った。

 わかってしまったのだ。この子は。その意味に。

 ひとにだって例外でない法則。

 こどものようなやまい。

 どういうふうに、君を見ているか。

 君は敏さも記憶みたいに、棄てていられたらよかったのに。

「急に美しくおもわなくなっちゃった」

 たぶん傷を感じられたなら、きっとそのとき少女にそう笑いかけたりできなかったんだろう。

 共鳴するから。痛みをわかってしまうから。

 いま、擦り切れてぼろぼろになった君の敏さだけがふたりの位相を変えずにとどめている。

 緩慢な、砂のような意識。ひとらしい傷を持つことができない。だからこんなかわいた更地のような心でも図太く生きていけていけた。

“博愛の目ように、あなたは誰をもみつめない”。

“それは、誰もあなたに傷をつけられないのとおなじではないの?”。

 そうだった。

 それは、自分に向けられた言葉でさえなかった。

 それは、

 母が――

 憐れな母が、それでも傍にいることを願った父へと告げたことばだったのだ。

 俺に、言ったのですらない、言葉だった。

 ああ、こんなにも、何も傷にはなれはしない。

 あざやかなものは、手に入ればすりぬけていく。

 

 

 記憶をたどりながら、この足は一歩一歩と階段を昇っていた。

 やがて革靴がこつん、と最後の音を立てて舞台の硬い床を踏む。白い子どもと真正面から対峙する。ひろい劇場にただひとつ落ちてくるシャンデリアの光はあまりにも高く遠く、照らすというより闇とまざりあっている。紅茶にそそいだたミルクみたいになめらかに。

 そうして暗がりの中にあってわずか発光するようにさえ見える、抜けるような少女の総白をもういちど知る。知悉していると思っていたものにたいして何もわかっていなかったということを突き付けられたときの、純粋な新鮮さをともなって。きっと何度でもそうだろう。赤い唇と氷漬けの膚のその鮮烈な対比に、いつまでだって慣れてしまうことはないだろう。

「においがする」

 と、近づきながら少女が言った。

「におい?」

「花みたいなにおい」

「ああ、そうかも」

 香水というやつだよ、と笑ってみせる。

「そう。これ、君のじゃないね」

「じゃあ、誰の?」

「僕が知るもんか」

 ふい、とそっぽを向こうとする帝を、そういえば、と引き留める。

「花を、育てていたことがあったろう。

憶えてるかな」

 少女のからだがこわばった。一瞬。たった一瞬。

 それだけで、すべて記録されている、と確信した。

 この子の中には、すべて。

 思い出せなくても。

 この子にはちゃんと傷がつく。

 だけどこの子のなかの「僕」はきっと短命でほんとうに何も知らないから、傷と認識できないまま、ぼろぼろになっていく。

「そうなの、きみが?」

「そう。そのときに」

 瞳を見る。やっぱり何も思い出せてはいないだろう。なぜその瞳の奥に恐怖が浮んでいるのかを、この子が(いまの・・・この子が)知ることはないのだろう。

ドールよりも不安定で自我も保てないけれど、傷跡はつく。ちゃんと。

「まったく同じ花がいくつかあったから。あとで見てみたら、他の植物もそうだった。ここのは、そういうふうに育つ?」

「ねえ、君さ」

 とつぜん、声色が変わった。

 ような気がした。

「一個一個の植物に遺伝子があって、それを演算してたら、いくつ〈双子塔〉があってもたりないよ」

 いつも舌足らずな言葉がさらさらと紡がれ、こどもはやわらかに微笑していた。瞳の中にあったおびえは取り払われ、かわりに全知の観測者のような乾いた、どこまでも乾いた笑みが造営されて、いる、と思うと、帝はくるりと踵を返してしまった。

「それはどういうこと」

「?どういうって、なにが」

「今……」

 ふたたび振り返った少女はあどけない、外見と較べて幼すぎるこどもの表情をしている。おぼつかない、ぐらぐらと揺れる輪郭。ここではないどこかへ逃げて行ってしまう瞳。

 いまのはなんだったのだろう。

 この子のなかに「すべてを憶えている」領域がたしかにあるのだとすれば、そのぜんぶを引き出せたとき、ああいうことも起こるのかもしれない。

 人格めいた、一本の軸の通ったひとらしい自我。

 それが、「ほんとうの帝」ということになるだろうか?

 それなら。

 それなら、

 すべての傷を背負って、もっと痛々しく、もっと感情的で、もっとぎりぎりでいてくれなくてはいけない。もっと爆発的に怒りや悲しみやそういうものを、なにもかもを、ぶつけてくれないといけない。

 そう、

 くずれおちるずたずたのすがたで、この胸をふかく、抉ってくれなければ。

「帝」

「うん」

 名前を呼んだだけで、何を読み解いただろう。

 だけど少女はたしかにそれを受け取っていた。

 近付いて、頬に触れる。抵抗もしなければ許容もしない。お人形のような在り方、それだって意味を組み込まれたテクスト。保っているための。いまを飴のように引き延ばすための。しろく冷たく見える膚は触れてみるとやわく、石鹸のかおりが鼻腔へ広がった。

「旬欄、ほんとに花みたいなにおい」

「ばらの香水だって言ってたな」

「ふうん。

……ねえ」

「なに?」

「誰だって、べつにいいんだ。顔もなまえもしらなくて」

 そのほうが、〈想像〉しないですむだろ。

 この子は自らを明け渡さない。いくら螺子がとんでいようが無知だろうが、それでも愚直に甘えるこどもになりきれない。

 誰にだって好意をもって望まれたなら与えたし満足できそうなものを差し出した。じゃれつく猫の喉を撫でるようにかんたんに。だけれど好意で返せばそれは嘘になるから、もらったものを返すだけだ。結果の、あなたはやさしい、だ。それはやさしいとはきっといわない。滑っているだけだ。現実の表面を。主役のいない舞台。俯瞰でしか語られない物語。

 だからこの子の方がずっとまともに生きている。ほんとうは環境さえ整えばきちんと泣くことができるし笑うことだってできたはずだった。

傷を、感じてみたい。

 ずっと、傷を知りたがっていた。

 嘘をついて騙してそれでもうたがいながら結局はそっくり信じ込んで、虚構によって組み立てられてしまったこの子の清らかさだ。いつか裏切ってそれを責め立てられたなら、それで俺はきちんと傷を知れるだろうか。ずっとその痛みに焦がれている。硝子のように透明に、こわれたときその破片がよく刺さるように、そうしてこの子どもをかたちづくってゆく。

 この子がいつか泣き縋ったら、けれどそのときなにもかもどうでもよくなって、色あせて、やっぱり放り出すだろうか。ふたつの予感。平衡を保ったまま動けないのは、この子だけじゃない。

 舞台の外側で俺たちを観ている〈観客たち〉だって、ことばを持たないだけでほんとうは彼らの中にもちゃんとした感情があるのかもしれない。だけど、それはだれにもわからないことだ。 

 もしかしたらこんなふうにこどもへ傷をつけることで自分に傷がつけたがっているほとんど自傷行為を、ばかげたことだと笑っているのかもしれない。

 けれど、

 それでも。

 あざやかで鮮烈な一点の痛みを、ずっとこの子どもの眸からいつか流れる泪によって刻まれる傷を、待ち続けている。

 奇跡を祈るように。

 そう、それはたぶん、祈りに似ている。