鋏が鳴る。 
 順に蕚から切り落とされる。 
 彫刻めいた横顔。 
 赤い花の海。 
 その意味の示すもの、ねえ、僕はわかってしまった。手に入れたものから褪せてゆくね。こどものようなやまいのからまった君、執着の先にあるのはからっからの、無関心だけなんだ。 
 だから、 



薔薇と鋏/すきをしらない 



「君は無知で、そのくせ、だから聡いね」 
 視界も声も膨張して、拡散して、揺れている。 熱があると眠らされた寝台のとなりで果実の皮をするすると剥きながら彼が言った。かたちと色とは「林檎」というくだものに似ているという、その濡れたように光ってあざやかな赤はこのひとの、瞳の色だ、と僕が言うより先に彼が僕の唇を指して、同じ色だね、と言ったのでそれきり僕のことばは咽喉につっかえたまま彷徨っていた、最中のことだった。 
 君は無知で、だから聡いね。 
 おかしな順接。だけどその意味するところを、僕はわかっている。 
「無知?教えないのがわるい」 
 わかっている。けれど知らないふりをする。それは、聡い、と彼が称した理由を体現しているんだとおもう。 
 たとえば。 
 僕は、彼から感情をあらわすことばを意図的に教えられていないことにだってもう気づいてる。だって明らかに、そこだけ語彙が足りない。かたちのないものを、ひどく流動的でひょっとすると実在さえあやういものを、標本みたいに瓶へ閉じ込めてラベルを貼って均一化するのが言葉の役目なら、もっと僕の気持ちだって定義づけられてよいはずだった。そっくりそのままそうでなくたって、ある程度の、分類としては。ことばによって整えられてよいはずだった。ことばが、もっとあるはずだ、ってことくらいわかった。僕にはじっさい足りなかった。胸のうちを示すそこだけが頭の辞書に足りなかった。ううん、足りないのでなくて与えられなかった。 
 きらいでないとき、いやじゃないとき、「きらい」や「いや」を打ち消す形でしかそれを表せなかったし、このひとの声、姿、わらうとき、触れられるとき、あのざわざわする気持ち悪さとも言えるような心地よさを、なんと呼べばいいのかわからなかった。作られた無知に薄々勘付いていた。僕にはおよそ肯定を示すことばが欠如している。このひとに近づくためのことばが。僕はほんとうは気付いている。それらのことばを、彼はわざと教えなかったんだ、っていうことに。 
 だから僕だってまるでそんなことにさえ気付いていない子ども、実際ことばが足りない子どものままでいることにした。この気持ちはどう言えばいいの、なんて問わないことで答えを貰わないことでそのことばを口にできる可能性をゼロにして、近づきすぎず距離を保った。それだって彼は見通しているだろう。もう僕が気付いてるってことに、それから僕がわざと気付かないこどもでいることに。これが、きっと僕らの関係図を、後退も進展もさせないでそれこそ標本の中身みたいにだけど定義もせずに保っておく策なんだとおもう。聡いというのはそういうこと。無知のくせに、駆け引きを無下にするほど莫迦じゃないね、って言いたいんだ。 
 お互い分かりきったことをお互い知らないふりして気づかないふりしてうつくしい距離と儚さを保ってる。 
「それは、順接じゃ成り立たないだろ。どうかしちゃったの。君も熱がある?」
「そういうところが、ね」 
「そういうところが、なに」 
「なんでもないよ」 
 彼が微笑む気配がして、(気配、なんておかしなことだ、) 唇へ、なにか押し当てられた。つめたい。熱に支配されたからだにひやりとした感覚が心地よくって欲しがるようにすこし口を開いてしまった。滑り込むもの。氷?だけど、密の味がする。 
「なに」 
「これ、さっきの果実、皮を剥くと氷の林檎みたいなんだよ、」 
と彼は言って、美味しい、と僕の額に手をあてながら覗き込んでみせた。 

 どんなときだって視線を外さない。 月みたいにはんぶん細めた瞳、整えられた笑みのかたち。 知っていたのに避けられなかった。 

 僕はこんなに間近にいま彼の瞳の色を再び知る。 
 熱のせいで濡れた僕の目、ぼんやりとした視界で光を乱反射して、頭が、いたい。 
 その瞳の色を、顔のかたちを、唇に触れた指先を、こぼれる銀の髪を、声を、仕草のひとつひとつを、「きらいじゃない」、それのほかになんていえばいい。教えてよ。どうか教えないで。 
 お互い分かりきったことをお互い知らないふりして気づかないふりしてうつくしい距離と儚さを保ってる。 
 だけどとてもいたい。 
 ずっとこのいたみと引き換えにいきてゆく強さが僕には足りなくて、いつだってこの先を捨ててしまいたくなる。一瞬の幸福のためだけにすべて暴いて、ことばの効力を信じて、からだなんかじゃなく僕はこのひとと通いあってみたい。つたえてみたい。暴力的なほど甘ったるく吐き出してみたい。きっとそうすることだって出来るんだ。彼は問えばちゃんと教えてくれる。"この感じはなに。"“それはね、"。 
 だけどそしたら、きっと君は僕に飽いてしまうね。この距離を保つことが、この駆け引きが、彼の執着を執着のかたちで保っているための、それはやさしさなんだって、 
「僕ちゃんとわかってるよ」 
「うん?なにが?」 
「なんでもない」 
「はは、それさっきの仕返し?」 
「うん」 
 僕らは目的語を従えない。置き去りにしないために、されないために。たとえ嘘に蚕食されて僕が内側からこわれていったって君はきっと悲しんだりしない。君のそれは僕と同じじゃなくて、きっとものに対する執着に等しい。あの赤い花。それから、鋏。 
「……眠いよ。頭いたい。僕、寝る」 
 逃げるみたいにより深く潜り込んだ布団のうえから、彼があやすように僕の背を叩く。「おやすみ。熱、下がるといいね」。とん、とん、規則的なその刻みは心臓のリズムに、溶けるようにまざってゆく。僕の意識にまざってゆく。膨張して収縮する。羊水に揺られるってこんな感じ、なんだろうか。 おきたとき、どこにいるの。 どこもいかないで。 目覚めのときだって近くにいてよ。 ぼんやりとそうおもいながら、結局声にかたちにならないまま、目蓋の幕はおりてしまった。 


✳︎


 あれは彼の背がまだこんなに大きくなかった頃だっけ、彼は中庭で薔薇を育ててた。とてもむずかしいって言っていたのに、僕に葉のつき方やなんか教えてくれたのに、あの日だけはそうじゃなかった。 

 薔薇に、とうとう花が咲いていた。 

 鋏が鳴る。金色が光る。じょきん、じょきん、順に蕚から切り落とされる。血みたいに赤い花の海。彫刻めいた横顔。凍りついた目。 
 急に美しくおもわなくなっちゃった、と彼はわらった。 
 僕はそのときわかってしまった。それは、たぶん、ひとにだって同じ法則。手に入れた玩具に飽いてしまうこどものようなやまい。執着の先にあるのはからっからの、無関心だけなんだ。 
 だから、彼のために、僕のために、僕はまだ、 「        」をしらない。