そんなではきっと体温でだって触れたさきから溶けてゆく、ことばだって凍えては冷えた喉咽のうちに堆積してきみはそれから窒息するのだろう。瑠璃になみうつ昏い夜、白蛾の、鱗粉を撒くよりずっとあおじろくかがやくだろう。 

 ああ、また氷みたいな皮膚。 

 

 

 

薄荷と蜜 

 

 

 もしかしたら霜のひっそりおりたようなこのしろい睫毛はほんとうに白霜でできたもので、まばたきをするあいだいまにぱさりと折れてしまうのじゃないかな、なんておさない横貌を覗きながら憂慮さえしたくなるほどのあまりの巧緻だ。目覚めたばかりのその膚は冬でもないのに凍っていた。血の気がない。まだ口をつけられていない薬瓶。 

「飲まないとしんでしまうよ」 

「しなない」 

 それが大仰な脅し文句というのはたがいにわかりきった事実で、それ以上もそれ以下もないのだって承知済みだった(じっさい効力を期待しない、不機嫌の観察を楽しんだおきまりの挨拶みたいなものだ)。着物の白いのをベッドのうえの少女は着崩して、どこまでも抑揚に欠けた返りごとを吐き棄ててみせる。声とは。呼吸の付属品。尋ねたらきっとそう答えるんだろう。その怠惰といったら息を吐くのとまるでかわらない。おまけに薄く開かれた目蓋だって簾めいた白い睫毛のためにいっそうひやりとしてもの憂いのだ。捲まくられたままの蒲団を折りそろえるのさえむずかって、頑是なくぺたりとすわりこんだまま、それはたしかに起きがけのあわいのなかに残されてまだ夢を見ているのだろうけれど、結局目を覚ましていたってこの子はいつだってこんなさまなのだった。 

「おまえ、そうやって嫌味ばかり言う」

 ふいに少女が折りたたまれた足をのばそうとからだをかたむけたとき、ぎし、と寝台のばねが鳴いた。 

 いっせいに、ばらばらといくつもの硬質がかしましく床を跳ねた。 

 それはじっさい一瞬で声をあげる間もなく、あんまり多く零れ落ちたためにそれがなにか円いものということのほかはまるでわからなかった。叩きつけるような球の輪唱。小石ほどにごっていない、透きとおったこの音は硝子玉だろう。床にはじけては小さな身に旧ふるいカンテラの灯をうけてわずか光ってみせる。あとからあとからおちゆくので、噴水めいているな、と思った。寝台から湧きあがっているのだという錯覚がきっとそう思わせたのだ。 

永遠みたいに感じられたそれは、けれどほんとうのところまたたきひとつに満たない。硬質の球はとつとつと跳ねるたび力をうしなって、あるいはいくつかははじめから跳ねもせずに、めいめいの方向へ転がるとしまいにはみんなどこかで受け止められてしいんと声をひそめていった。そうして最後のひとつが、こつん、とちいさく音をたてるともうそれきりだった。夢の終わり、終幕間もない劇場ににて、かえっていっそう群青の大気は自身をこわばらせてきんとはりつめたように思えた。なにごとももとどおりとはゆかないのだ。シーツのうえ散らばった水碧とカラメル色の、透き徹る水晶じみたまるいものが、いつか贈った飴玉と思い出したのはそれからだった。 

「……これは?」 

「……のどがいたい」 

「咽喉?」 

 飾るばかりでほとんどぴしりと閉まっている蒐集棚の扉がきょう、すこし開いているのはなるほどそういうわけだ。硝子飴は硝子玉にかたちを似せた薬でのどにきくのだ。無味の硬質透明の円い層のしたに、薄荷や蜂蜜やカリンやそれから檸檬などの色層が閉じ込められている。もうずっとどこへ置いたかわからなかった行方しれずの飴玉を今になって捜索したのだって、いつだったかこの子にそうおしえたのを思い出したのだろう。 

「風邪でもひいたんじゃないか」 

 そんな格好をしているから、 

 そういうと少女は途端に機嫌を損ねて着崩した着物をなおそうとする。羽織りの下わずかに覗くほそくひらたいからだの線はただ少女の性を曖昧にさせるばかりで、投げ出されたおさない脚の、それでもそこびえするような色のなさが、その四肢が有機であることさえ否定しているようにみえた。 

「ぼくのせいじゃない」 

「熱は?」 

「しらない」 

 いちど気に食わないことがあるとこの子どもは気持ちを整えようとしない。整えかたをしらない。なにしろ情緒の発現がまともじゃない。たぶん誰より無垢なのだ。他人を知らず、対等な比較の対象さえ与えられずに、無菌の箱庭の酸素だけで呼吸し生きてきたこの少女にとって、人物との距離感などないに等しい。いやなものをいやとはねつけることにおいて少女は一流だ。異常なほど無垢なものは狂気に分類されるべきじゃないかと、この子を見てはふと思う。そんなことをいうともっと機嫌を損ねるだろうけど。ぼくはまともだ、って。 

「測ろうか、熱」 

「いやだ」 

 綺麗に縁取られた輪郭と、その瞳のいろが、揺れている気がする。ふるえている。確実に熱がある、それも微熱とかいう具合の話ではないだろう。 

 ふと、 

 裏切ろうか、 

 そんな言葉が頭をかすめた。 

「じゃあ好きにすればいい」 

 とびきりあっさりと、できるだけ酷薄に言い放つ。ただしく想像通り、途端に少女のまとう空気が、かげろうみたいにぐらりとぶれるのが分かった。 

 どんな嗜虐的なせりふも、ただ渇いただけの言葉に勝てないことを知っている。この子がほんとうに恐れているのはひとりきりという状況で、だから突き放すほうがずっと堪えるだろう。こんな感覚は一度かぎりではなかった。憎悪にも軽蔑にも、慈しみにも寵愛にも似ていた。それはときどきこの腹の底から突き上がる、あるいはせりあがる、不明の衝動だった。 

 突然に糸を切られたよう、じぶんが一瞬見せた戸惑いという弱みのせいで少女は次の一手を打てなかった。見透かされ、玩弄されてなお居丈高に振る舞うほど浅はかにもなれずに、呼吸さえむつかしくなるほどの静謐。 

 ―ーけれど、泣かない。泣きかたをしらない。 

 熱に浮かされた少女の腕はそうして、それでも、やさしさを乞わない。あまえることをしない。こういうとき、少女はことばを選ぶことができなくなる。ただ口をつぐみ、沈黙のなかにある。たぶんわかっているんだろう。意識ではなく本能で。いちど甘えることをおぼえたら、もうにどとその正常を取り戻せないだろうこと。このほそいからだを組み立てているのはたとえばガラス製の意地、それきりだから。 

 もうじき少女のかぼそくしろい咽喉はひゅう、と音を立てる。 

 のどまでせりあがった言葉をうまく呑み込めないかわりに、堰をきったようにあふれだす酸素。じぶんをまもるためのただしくない呼吸。 

「嘘だよ」 

 会話も拒んでいたくせに、髪を撫でると不思議なくらい無抵抗になる。さっきまでの不機嫌がうそのように、また人形みたいな表情にもどって目を伏せる。起きて熱が上がったのか、蒼白の頬はほのかに紅く色づいて、白い髪がそれを引き立てた。だけどこんなときくらいだ。この膚は色を知れない。震える目蓋。白い霜の睫毛が溶けてしまうよ。ひそやかに漏れる吐息の、その韻律はわずか乱れている。シーツに転がった飴玉をひとつ、抓んで口元へ近づけてやると、まるい小さなそれはぷくり、と唇に触れた。ふ、と息をついて、とろりとグラスじみた瞳が細められる。口内へ押し込まれたその寿命は薄命だ。ばらの蕾の唇に不似合いな、ガリ、ガリ、暴力的に噛み砕かれる音。どこまでも無垢なバイオレンス。うつくしいね。 

 懐かれているのか、きらわれているのか、どっちだってよかった。もしかしたら狂気の沙汰に分類されるのかもしれない、それでも、それなら、正当な理由ができるからいいかもしれないな、なんて、思うのはその程度だ。あいだにあるのは、かんたんに首を絞められる距離、ただそれだけ。 

 ただしくないね。 

 少女はそのつくりものみたいに整ったかたちをした唇から、ちいさくことばをこぼした。下手な永遠のまねごとのように、いつまでもto be continuedのまま、なんど夜が終ってもなにもかわらない。

「ただしくないって、きみそう思うの?」 

 返事のかわりに、きこえてきたのは規則正しく呼吸をするおと。眠るとき、あのナイフみたいな瞳のするどさをどこへ隠してしまうのかわからない。かんたんに首を絞められる距離、という均衡をたもちながら、ほうっておいてもいつかこわれてゆくような気がした。硝子製のオブジェにきみは似ている。

 

 果たしてきみのそのしろい咽喉をやいたのは薄荷か蜜か、あるいは熱のせいか、わからなくなった。