「あったよ」。 

 過去形。 

 それでも十分だった。 

 誰かを手に入れたいとほんとうに願ったことはあるの、という問いへの、それはたった四文字の、うつくしい答え。 

 かろやかさに戸惑ったのはぼくのほうだったろう。もっと曖昧なこたえだと思っていたから。そんなものはないか、かくしてしまうだろうと決め込んでいた。紅い はどこまでもまっすぐで、どこも嘘がなくて、あるいはすべてが嘘のような――ああ、矛盾している。眼窩に鳩血色の宝石を嵌め込んだみたいな目。こんな目のまま生まれてきたのか、あんたは。そういうの、演出なのか。 

 このひとはゆるがない。詐欺師にしてとびきりの紳士。こうして向かい合うと、それがてっきり一方的な、懐疑心をとおした自分のイメージだと信じ込んでしまうのに、あとになって記憶の中で紡ぎ合わせたかれはいつもどこかしらずるいのだ。 

 あんたはどこにいるんだ? 

 ――きみの目の前に。 

 三年前からの友人だ。少なくともぼくはそのつもりだ。だけど、ぼくはこの男のことをきっと何も知らない。 



彼について Ⅰ 



「じゃ、ほかの子はみんなその子の代替品というわけ」 

 そう問いながら、代替品などという言葉がじぶんの口から滑り出したことに驚いたし、言ったそばから撤回したくなった。こんな卑俗的な単語をかれに当てはめるのではいけない。かれについて語るとき、ただしいと思って口にしたことさえ一瞬のあいだに嘘になるような気がした。このひとの前では、どうも自分が何か言うたび恥だけを上書きし続けているような、そんな呪いがたしかにあると思う。 

 〈テラス・メルツェル〉のロビーの一部はカフェとして職員のために開放されている。一階から最上階までその中央はひろびろとした空間で穿たれて吹き抜けになっており、たとえ外がどのような天候であれ、円蓋からはいつでも晴天に相当する光が射しこんだ。じっさいのところそれは天井をいちめんに覆う<ガラス膜>の仕事によるものだ。硬質のガラスのようにみえる透過膜はそれじたいが稠密にあつまった極微の光制御AIの群れなのだという。

 白を基調とした建造物の内部はつねに木洩れ日に似た陰翳で彩られ、一瞬、また一瞬のうちに光によって姿を変える。外部からの光を蓄え、気候をえらばず常にちょうどよい光量を保証するようプログラムされた円天井と、広大な吹き抜けがあってなお行き届いた空調設備、つるりとした壁や床、柱の類。それらは清潔であるほど無機質で、どこまでも生のありかを否定しようとするようにみえた。〈最初のメルツェル・ドールが設計した神殿〉。そのように謳われるこの〈テラス・メルツェル〉はたしかに、人間のためにつくられ、生を持たないかわりいつまでも美しくある、メルツェル社の人形そのものなのだ。ここには自社の商品のホロ広告も展示もない。ドールは街中に溢れ、誰もがそこに刻まれた社名を知っているし、このすぐれた建築じたいが巨大な広告塔となっている。

「お待たせいたしました。ほかにご注文は?」 

 給仕の少女が注文しておいた 熱いワイン ヴァン・ショー を二人ぶん運んでくる。簡素な、それでいてよく設計された衣装は、光の角度によってなめらかなクリーム色に微細な粒子をきらめかせた。パール紙をそのまま布にうつしとって纏ったようだ、といつも思う。 

 かれは―― 旬欄 シュンラン (それがかれの名前だ)は少女からグラスをうけとり、かるくほほえんだ。 

「ありがとう。他にはないよ。……そうだ、ひとつ頼みごとをしても?」 

「ええ、なんでしょう」 

「十四時になったら報せてくれないかな。ちょっと用事があって」 

「ええ。では、直接お呼びすれば?」 

「うん、そうだな。この番号へ繋いでくれると助かる」 

 そう告げて彼は机上に 透過 スクリーン パッドをたちあげると、かんたんなメッセージを入力したあとじぶんに割り当てられた 映話番号 コールコード を〈送信スライド 〉した。ながい指先がおどって、ピアノを弾いているようにも見えた。 

 そのやりとりのなめらかさにだっていちいち感嘆する。 

 まるで映画みたいだ。 

 少女がごゆっくりどうぞ、とちいさくお辞儀をしてカウンターへもどっていったのを確認し、ぼくはようやく口をひらいた。 

「なるほど。そうやって通信先を渡すというわけ。勉強になるなあ」 

「きみはなにか俺をかんちがいしてるんじゃないかな。あれは社内用の番号コードだよ。それにご存知のとおり――」 

「冗談だってば。知ってる」 

 ワインを口に含む。あたたかなアルコールは喉をくべるようで、たっぷりとしたシナモンのつよい香りがほどよい陶酔をうながした。 

 たとえばそう、彼女だって人形だ。 

 なめらかな動作、表情、擬似呼吸と機能的にはまったく意味のないまばたき……もはや一見して人間と区別がつかないけれど、首のうしろ、やわらかな人工皮膚にはネクタイピンほどの銀のプレートが嵌め込まれ、メルツェル社の名が刻まれている。高品質な、人間に近しい無生物。 

 メルツェル社は工業用のドールをつくらない。あるひとつの仕事のためにだけ特化してつくられたドールは存在しない。ひとりのドールが助手として事務作業をこなすこともあれば、いまのように給仕をすることもあるし、もちろん働かないこと、ただ所有者のそばにひかえるだけの場合もある。ドールたちは所有者となる人間に好みのパーツをえらばれ、設定された指標パラメータカードを挿入された人工物ではあるけれど、同時にかれらの在り方はメルツェル社によって厳格に規定されていた。

 すなわち、メルツェル・ドールは娯楽と鑑賞のための美しい人形でなければならず、それ以外の平均された機械のような工業的な在り方、奴隷のような使用はみとめられない。それが何代にもわたって受け継がれてきたメルツェル社のコンセプトだった。ドールを購入して得るものは好きにする・・・・・権利ではなく、ひとのように愛するための権利だ。 

 とはいえ、不正な利用が後を絶たないのだってまた事実だった。指標パラメータカードを規定された以上に従順なものに書き換えるパッチはいつになっても駆逐されない。本来存在しないはずの機能を付け加えるガジェットも。からだを弄られたドールの回収と保護も、この施設で行われている。 

 そういえば、かれはそのセクションで仕事をしているときいたことがある。お互いのセクションの詳細な業務内容を明かすことは職員どうしであっても禁じられているために、具体的にはなにを担当しているのか、それはわからないけれど。

 そこでようやくロビーを行き交う人々の視線がかれへと注がれているのに気がついた。ある者は悟られないように、ある者は露骨に、そのすがたを注視する。セクションがちがえば会う機会のない人間は山といるし、ふだん別館にいるかれがこのカフェへ来ることも思えば珍しい。とはいえ、それだけでないのは一目瞭然だった。こぼれかかる銀の髪、美しいがいっそ禍々しい赤いひとみ、その輪郭を象るどの曲線にも意味のあると思わせる、生きた彫刻のような男。会話をしたならその隙のなさにまた驚くんだろう。

「そうそう、さっきのこたえだけど――」 

 一度途切れてしまった会話をどうつなごうかと思案していたまさにそのとき、かれはひとくちワインに口をつけると、かちゃりとていねいにカップをおいてそう言った。ほとんど合図だったし、こういう所作こそ隙がないとおもわせる所以だということを、あらためて知らされる。まるでこちらの意図をなにもかも知っているかのような、意識的でさえないエスコート。 

 それからかれは大げさに、すっと肩をすくめてみせた。 

「……まさか。代替品だなんておこがましいよ」 

 からりとした、重量を感じない調子のこたえ。 

 抜群にひとを安心させる、負の成分を含まない声、そう、その効力は絶対だ。だからこそずるいのだ。ひとこと発するだけで空気を変えてしまう。かれの印象をよりよいものへ近づけ、悪意や嫉みは少なくともかれの声のあるあいだ消え失せる。人を信用させることにおいて一流だ。たぶん、それは生まれついて。フォーマルでありながら野性的であり、そこのところのバランスが完ぺきだった。最上級の信頼ーー同時にだれもそれ以上へは踏み込めない。踏み込もうとした人間がけしていないではなかったが、来る者を拒まずあまやかされただけだといつか気づいて引き返す。それをかれは追うこともなく、ただわらっているだけだ。傷はつかない。誰もかれを傷つけられない。 

 かれはいつも、自分に好意を向けてくる彼女たち(あるいは彼ら)に対して紳士的かつ柔和な姿勢を崩さないけれど、思うにそれはなんの熱も含んではいなかった。ほどよいタイミングで、ほどよい距離で、ほどよい位置でそこにいて、どんな瞬間に顔を覗いても牙がみえない。だれから見ても隙のない立ち居振る舞い。俳優のような整った在り方。理想の男アニムス。なのにどこかで、いちばん人の情や愛と呼ばれるものから程遠い場所に立っている気がしていた。それがどんなに美しいもので、高尚であるかをだれかが語ったとしても、かれがそこにあらわれるだけで途端に陳腐な虚構に成り下がってしまうみたいだった。 

 かれ自身は気づいていないかもしれないが、自分に好意を向けてくる人間へのかれの想いというのは、道端で戯れてくる猫に対するときのそれと同じなのかもしれない。拒絶はせず、甘えられればのどを撫でてやる。餌をねだれば与えてやる。けれどその行為には目に見えたそれ以上の意味は宿らない。一瞬の交錯がすぎると、結び目がほどけるみたいにそれぞれの日常へかえってゆく。なまえはつけない。そういう種類のいきものだ、「道端の猫」というのは。先週どこかで見かけたのと、一年前別の場所で見かけたのと、遠い昔旅行先で見かけたのとは、「道端の猫」という同じいきものにすぎない。ぼくたちがある猫を撫でるとき、いつかどこかで撫でてやった別の猫に後ろめたさを感じたりなんかしないように、かれにとっては自分に好意を寄せるどの人間も等しく平均的に映るのかもしれない。それはほとんど、無価値とイクォールだ。やさしいといえばそのように写りもするだろう。だけど決定的ななにかが欠落している。 

何人がそれをうめたがり、やがてあきらめたのだろう? 

 だからといってだれかをもののように手ひどく扱うことなんかないのだって分かっている。やわらかな無関心は博愛と言い換えることだってできるのだから。 

 代替品などという言葉をえらんだことにたいして、まちがえた、と思ったのはそういうことだ。 

「さっきのは言い方がよくなかったよ。忘れてくれ」 

「いや、せっかくだからきちんと答えておこう。その子の代わりとして他の誰かを扱ったことはない。 

……というわけで、誤解は解いてもらえた?」 

「……誤解、というか、ほんとうに言葉のあやなんだ。怒った?」 

 意味のない質問だった。ご機嫌とりみたいだ。かれがひとに対して怒ったりしないし、機嫌を損ねたりしないということを知っているのに。ぼくはじぶんが、せいいっぱいかれに親しくあろうとしている、ということをいやでも意識する。ときどきあるだろう。こちらだけが友人だと思っているのではないかと感じて、よけい砕けたじぶんを演じようとすることが。 

 もうずっとそういうふうに振る舞っている。 

「まさか。怒ったりしないよ。でもさ、やっぱり俺を何かかんちがいしてるんじゃない?」 

 くだけた笑いがかれから発せられる。どんな猜疑もあっけなくなかったものにするかろやかさが、そこにはある。かんちがい。そうかもしれない。――それならどんなによいだろう。 

「そうだな、それなら……あんたは優しすぎるだとかぬるすぎるとか彼女たちの言ったようなほんとにそういう理由で毎回振られてるだけで、それ以上もそれ以下もないのかも。そんなはずない、と思っているぼくの穿った見方というやつで、ぼくが思うほどあんたは複雑ではないのかも」 

「毎回振られるね。事実だけど本人のまえでそれをいうかなぁ、謝ってるんだか貶してるんだか。複雑、ねえ」 

それってぜったいいい意味ではないでしょ、とかれは言う。屈託がなく、そのわりに上品で静かな表情、たぶん性別のない天使はこういうふうに笑うんだろうなと思った。 

「悪かったってば。だけど、なんていうか意外で。そう、ほんとう失礼なんだけど、ぼくはあんたを人形なのかとすら思ってたくらいだし。いや、知ってるんだけど、人間なんだってことは」 

「嫌味?それは矛盾しているよ」 

「そうなんだけど。でも、だいじにはするけど、好き、には見えなかったから。まるでそういう感情を知らないみたいだったから。 

それはたぶん、ほとんどの人間にとって屈辱だよ」 

 なんというか、善人すぎてあんたは胡散臭いんだ―― 

 すっかりかれに絆されかけ(そういうことにおいて天才だ)、軽口を叩こうと頬がほころびかけて、ぎくりとした。 

 ……ぎくりとした? 

 それがじぶんのどんな感情なのか理解するまで、たっぷり数秒はかかったように思う。 

 紅い目は笑っている。 

 屈託がなく、そのわりに上品で静かな表情、天使。そう、博愛の目。けして拒絶ではない無関心の目。 

 ――ほんとうに? 

 ようやくじぶんが混乱しているのだということに気づいて、呆然とした。 突然に、触れてはいけないものをさわろうとしてしまったような、なにか大切なものをまちがえたような、とりかえしのつかない――そういった感情のただなかに放り出されて、いつのまにかおぼれていた。 

 なぜ? 

代替品だなんて、おこがましいよ。 

 背中にひやりと流れるものを感じた。 

 かれのせりふがべたりと耳にはりつき、こだました。声が蔓となって鼓膜へ浸食し、このからだをすっかり染め替えてしまうような感じ。 

 慄えがおこった。 

代替品だなんて、おこがましいよ。 

 かれの発した声の記録をもういちどなぞる。耳の奥にひびくうつくしいテノール。 

 ふっと窓の外に視線を移した彫刻めいた輪郭に、なにかそらおそろしいものを垣間見た気がした。 


彼女たちが・あの子の・代替品だなんて・おこがましいよ。 


 やわらかな微笑をかれはけして崩さない。 


 混乱でなくてはっきりとした恐怖だった。あざやかすぎてそうとわからかったくらいの。 

 かれのその浅く弧を描くように細めた、博愛の象徴みたいな目が、手にしたいという動的な感情を持ってたしかにだれかをみつめることがあるのだということに、恐怖した。いつも微笑むときに細められる静かで優美に見えた目が、意味を変えてゆく。変貌してゆく。なぜ気づかなかったのだろう。かれの目は笑ってなどいなかったのだ。かれがああやって目を細めるとき、目の前にある事象を透過して、「あの子」の像を結んでいたのだろう。だれのすがたに重ねるでもなく、そこにその子自身のすがたをたしかに見ているように。慈しむような視線、けれどそれは寵愛ではなく、昏い憎悪さえ孕んでいる。かれは誰にも踏み入れられない場所を見つめている。 


 無限に広がるくて。 


 脳みそをすうっと撫でられたような気がして、ぞわりと全身の毛が立った。 

 ――あんた、誰かを手に入れたいとほんとうに願ったことはあるの。 

 そう聞いたのは、ないと答えられればやっぱりそうかと安堵できるだろうし、あると答えられればかれにも誰かに思いを寄せるということがあるのだ、かれもやはり平凡な一個人にすぎないのだと、そうくすぐったく笑いあうつもりだったからだ。じっさいは、さあ、と曖昧にされると思っていたし、それでもよかった。あまりにもとりとめのない会話のたった一部だった。だけどいざその目が誰かひとりに向けられるということをこうして知ると、なにかそれがおそろしくいびつで間違ったことのように感じられた。その視線は期待したような、じぶんたちが誰かを慕い、慈しみ、愛すときの目じゃなかった。そんな範疇をとっくに過ぎていた。丹念にみがかれたナイフ。ヴァン・ショーみたいな、熱と陶酔と、からだを蝕むアルコールの毒、静かすぎる熱情。 

 ――あったよ。 

 過去形で語られたことにはどういう意味があるのだろう。かれはこんなにもいまだ鋭いものを抱えていて、あきらめただなんてそんなことがあるのだろうか。まるで手に入れたがったもののほうから消えてしまったみたいだ。 

「具合が悪い?」 

 声をかけられて、はっとぼやけていた視界が集束した。なにかを言わなくては、とてもそこにいられなかった。意味のないことでもいい。絞りだすようにやっとのことでことばをはなとうとする。のどがからっからに乾いているのを声を出してはじめて気づいた。 

「その子はいまはどうしている? 

――亡くなったの?」 

 だけど、まただ、まちがえた。 

 あんた振られたの、そうとでもいえばもう少し冗談にも近づけられたのだろうに、もうおそい。かれはしばらくなにかを思い出すようにして、まっすぐにぼくの目を射止めて、笑った。 

 ……ああ、そのとおりだ。笑ってなんかいない。 

「さあ、どうだろう」 

 ひどく無責任なことばだったけれど、やわらかくけして突き放すようなものでなかったことにおどろいた。ほんとうに知らないというみたいで、それが事実におもえた。あるいはそんなことにはぜんぜん興味がないみたいだった。視線を逸らしてしまえれば楽だったろうに、不思議なくらいその赤い色に吸い寄せられる。そこには、蜜でもあるんだろうか。血の色のなかで誰かがみつめかえきている気がした。かれの瞳のなかに、ときどき子どもめいた無邪気な翳りが見える。 

「ねえ、死はどこにあるんだろう?」 

 質問を質問で返すのはずるい。こっちはそれをもういちどは使えないから。答えずにはいられないから。死はどこに――あるんだろう。どうしてそんなことを聞くのだろう。まるでそんなものどこにもないみたいに。 

 だけどふと、それが今月の機関誌の論文のタイトルだということを思い出した。死はどこにあるか。 

「からだが……いや、主観が消えた瞬間にあらわれるもの……」 

「……もうひとつ、聞いてみてもいいかな。 

他人の主観を、それがたしかにあるとどうやって観測するんだろう。 

反対に、からだのない主観がないとどうやって証明するだろう。たとえばきみが読む本の登場人物はものを思うだろうか。それが存在したり、消えたりするのを、その本人以外にだれが観測できるだろう。 

たとえばからだがほろびて、閉じ込められていたその主観が外へとはなたれてまだそこにあるのだとしたなら、それでも死とよぶんだろうか」 

 かれが何を言いたいのか、わかるようでわからない。意味じたいはかろうじて理解出来るけれど、意図はちっとも読み取れない。ただ完全にかれのことばに聞き惚れていた。それはどこかとおい国の詩の朗読、心地よい音楽のようだった。 

 ぼく以外の世界のだれもが、かれでさえほんとうに心なんて持っていなくて、規定通りの演技をする人形のようだとしたなら。そしてかれから見ればぼくだってそうで、かれの世界でぼくがたしかに意識をもっているということを証明できないなら、だれもがだれかの世界ではそうなら。そうなら、ではない。じっさいにそうだ。心のありかは証明できない。メルツェル・ドールにだってそれはあるのかもしれない。本の登場人物にだって。

 死はどこにあるんだろう。 

 生の死の境はどこにあるんだろう。 

 夢と、いま夢ではないと信じている景色の、境は? 

「ときどき不思議に思わない?眠って起きたら、どうして昨日の自分といまの自分とが地続きだって感じられるのかって。それとこうも思う――その証拠はどこにあるんだろう?まったくかたちの同じべつのからだに記憶と認識体系とをうつされたのだとしてだれがそうと気づくんだろう?主観の移植と複製。アカウントを別の端末に引き継ぐみたいにかんたんに、どんな器にもインストールできたなら。 

主観の創造――本や夢の登場人物だって、その認識体系を再現できたらからだを持つことだって可能かもしれない」 

 滑らかなことばたちににつよく惹かれながら、ひどいめまいをおぼえていた。突拍子もなく飛躍した話にもそうだが、それ以上にかれの瞳にしずかに棲むだれかの気配に。 

 三年前、かれはここへ突然あらわれた。メルツェルに手紙をすでに送ってあるといって通されたかれを案内したのはぼくだった。 

 かれはここで何をするんだろうか? 

 しようとしているんだろうか? 

「現実に存在しないものを手に入れようとするとき、ひとはどうするか俺たちは知っているはずだよ。物語を残したい者は小説を書く。風景を表したい者は絵をえがく。美しいすがたを愛でたいのなら、人形をつくる」 

「――なんの話を」 

「象る、ということ。 

ひとの夢からかたちをつくる方法は、ずっとそうだったよ」 

 それからすぐかれとぼくとのあいだに通信モニターがたちあがり、少女のすがたで約束の時間を告げた。実体のないそれはだけどかれとのあいだを阻むやぶることのできない薄い膜、見えない壁のようにおもえた。いまの話さえ途方もないおとぎ話だったかのように、もう行かなくてはねと立ち上がったかれの彫刻めいた顔に浮かぶのはこんどこそ完ぺきな陰ひとつない微笑だった。 

 結局かれの手に入れようとしただれかが、どんな人物であってどのように関わってどのようにかれの前からすがたを消したのか――あるいはかれのほうから去ることになったのかを、語られることはなかった。死や主観の移植なんて話はそれとはまったく関係のない話で、ぼくをはぐらかすためのただの気まぐれだったのかもしれない。 

 だけどときどきこんなことを夢想する。

 その子はほんとうはどこにもいなくて、それさえすべてはかれの一夜の夢だったのかもしれない。かれの中でだけ生き、かれの中でだけすがたを消した、その子はいまはまだえがかれていない物語の人物なのかもしれない。夢の国のアリス。作家が文字を連ねるように、音楽家が五線譜を彩るように、かれはまだ見ぬだれかをあたらしい技法でたしかなものに象ろうとしているのかもしれない。 

 そうであればうつくしいと思った。 

 ただしくなかろうと真実でなかろうと、それがぼくの中ではもっともかれにふさわしいような気がした。かれのからだを褥として夢はそだち、いつかかれをとおしてかたちを得る。かれは死をきらっているのでも、死者にとりつかれているふうにも見えなかったから。むしろ生のあざやかなにおいすらそこにはあって、手に入れられなかったということじたいがかれにとってはひとつも惜しむべきものではなく、神聖な事実なのではないかと思えた。 

その子はかれの瞳の中でだけ住んでいる。博愛と無関心だけがあると思われたかれの瞳の中で、ただ一点の炎をくべつづけている。 

 象るということ――。 

 主観の移植、複製、創造――夢を捏ねてかれがなにかを生み出そうとする過程で、ひとのありかたはもしかしたら大きく捻じ曲げられてしまうのかもしれない。かれの目的がそうでなくたって、だって夢の人物ではなくひとにとってはそれは死をうしなうことだ。からだが時によってほころんでそれをだれも止められないのならば、いつかみんなからだを棄てるようになるかもしれない。人形のやわらかなつくりものの器に移住するかもしれない。あるいは物語の人物が読まれることによってひとびとのあいだを渡り歩くように、ひともいつかからだを持たず情報の海をゆきかう信号になるかもしれない。これから何百年も先、かれの技法によってまったく新しい命のありかたが定義され、ひとの意識は創作世界と物理世界のあいだでクラウドできるものになり、いつか現実と夢の境界はまざりあってうしなわれるのかもしれない。だけどかれは気にもとめないだろう。なぜだかそれが心地好いものに思えた。かれの技法によって変容することは暴力的な官能だと思った。そのような力を、ふるわれてみたいとさえ思った。 

 三年前からの友人だ。少なくともぼくはそのつもりだ。

 だけど、ぼくはこの男のことを、きっとまだ何も知らない。